2014年4月13日日曜日

宗教裁判

 小保方さんが先日開いた、理研の調査報告に対する不服申し立ての記者会見には、正直云ってがっかりさせられました。不服を申し立てるからには何かそれなりの反証が出てくるものと期待していたからです。不正や悪意はないと云うのなら、なぜ正しい写真なり証拠を出して具体的な説明をしないのでしょう。ノートも他にあるのならなぜそれを見せないのでしょう。また第三者で実験に成功している人が他にいるのなら、なぜ事前に了解をもらってその人の名前を公表しないのでしょう。これでは不服申し立ての会見の意味がなく、何回謝られようと、何回「スタップ細胞はあります」と云おうと、信じることは難しいと云わざるを得ません。
一方、理研の方も、論文に疑惑が浮上したころは「論文成果そのものはゆるがない」と云ったり、「作り方にノウハウがある」とその一部を公表したりしていたにも拘らず、山梨大の若山教授が論文の撤回を呼びかけたころから態度が豹変し、論文の撤回に傾いたり、小保方さん単独の「不正行為」、「ねつ造」と断罪したり、「STAP細胞」そっちのけで事件の収拾を図ろうとする行為には、ガリレオが「地動説」を唱えたとき、中世の教会が「異端か、異端でないか」を裁いた宗教裁判を思わせるものがあります。小保方さんの論文を否定しても、STAP細胞そのものが完全に否定されないかぎり、その存在についてはっきり白黒つけるのが本筋ではないでしょうか。幸い理研も1年かけて再現実験をすると云っているので期待したいのですが、ただ小保方さんを実験から外すと云っています。ここがまたよく分からないところで、なぜ彼女を外すのでしょう。一緒にやれば彼女も名誉回復とばかりに真剣に再現実験に協力するでしょう。問題はSTAP細胞にハッキリ決着をつけることであって、そこには少しの疑念が残ってもまずいのであって、小保方さんを外してもし上手く再現できなかったら、どう結論付けるのでしょう。
 小保方さんの博士論文と云い、ネイチャーへの投稿論文と云い、ずい分無責任でずさんであることは否めません。ただ彼女がどんなことからSTAP現象に着目するようになったかは知りませんが、何か全く新しい現象に関心を示し、あるいは新規な発想を抱いてそれに果敢にチャレンジする人には、やはり常人とは何か違う特別な才能がある可能性があり、温かく見守ってやることも大切なのではないでしょうか。ガリレオも若いころ「光に速度があるのでは」と考えたとき、助手を向こうの山の山頂に立たせ、自分はこちらの山の山頂に立ち、共に手に持つランプに覆いを被せ、最初にガリレオが覆いを取り、そのランプの光を助手が認めたら次に助手がランプの覆いを取ると決めて、ガリレオが覆いを取ってから助手のランプの光を認めるまでの時間を計り、光速を求めたと云います。いまなら小学生でもこんな実験は無意味だと考えやらないでしょう。しかし光に速度があるのではと感じることもさることながら、方法はともかくそれを測定しようとするチャレンジ精神というか勇気には、やはり賞賛に値するものが十分にあると思います。
 あの孔子も自分の生涯を振り返り、
 「吾、十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳に順い、七十にして心の欲する所に従いて矩をこえず」
と年齢を重ねるにしたがって自己が完成されていく過程を述べています。小保方さんはまだやっと30歳で、孔子にしてやっと自分の足で立てるようになったばかりのころです。人間的に未熟であっても当然です。折角のリケジョの希望の星を、安易につぶしてしまわないことを祈っています。
 

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