小泉元首相の「脱原発」に関する講演が大きな話題になっています。小泉さんもかつては原発推進派の立場にあり、今回の発言は安倍政権の方針と真っ向対決する内容だけに、問題は大きいと云えます。小泉さんの原発への疑問視はやはり福島第一原発事故がキッカケのようで、今夏訪れたフィンランドの「オンカロ」核廃棄物最終処分場の見学が、脱原発を確信させたようです。方針転換の理由を問いただす記者に対し、小泉さんは「感性だよ」と答えたそうです。いかにも小泉さんらしい答弁ですが、わたくし自身はこの答弁に一縷の望みを託したい気がしました。
「常識」という言葉があります。わたくしは社会に出たころ先輩たちに「そんなこと常識だろう」とよく怒られ、「常識ってなんだ」と悩んだことがあります。辞書によれば「一般人が持っているべき標準知識」ということになり、極めて普遍的な意味合いを持ちますが、当時のわたくしにはどうも腑に落ちないことが多かったからです。そして英語の「Common Sense」なら納得できるように思いました。つまり「共有する認識・感覚」なら自分が所属するグループ、会社、地域社会、それぞれにCommon Senseがあるわけで、だから「永田町の常識は社会の非常識」と云われたり、「原子力ムラ」という強い集団の常識があったり、あるいは「JR北海道」のようなずさんな常識もあり得るわけです。つまり常識とは決して普遍的なものではないのです。しかも常識はそれぞれに長い年月、経験、利害、しがらみなどで培われたものなので、凝り固まったものとなり、傍からは異常としか思えないことでも当事者たちには真っ当な常識であり、声の大きい集団の常識の方が影響力も大きいわけです。だからわたくしは政府が各界の有識者を集めて開く多くの諮問会議に、いつも疑問を感じています。それぞれの有識者がそれぞれの常識に則った意見を述べても、そこから新しい発想が生まれるとは信じがたく、結局は所轄省の常識に則った役人が、声の大きい団体に配慮しながら常識的資料をまとめ、一件落着ということになりかねないからです。そこに本当に必要なのは宝石となる原石を見つける「感性」であって、感性こそが常識という凝り固まったものをぶち壊し、新たな進路を切り開くと考えるからです。しかし感性というのは一種の才能であり、しかも原石を磨くには力もいります。感性のある実力政治家に期待する所以です。
ところで東電の事故対応を見ていると、すべてが後手後手にまわったやっつけ仕事で、これが原発の安全神話を作り、国家をリードしてきた人たちのすることかと思うことがあります。しかしいまから20年近い前の話しですが、ロシア船籍「ナホトカ号」が丹後半島沖で座礁し、大量の重油が近くの海岸に流れ着いたことがあります。大勢のボランティアがかけつけ重油処理に当たりましたが、そのときある現場の町長が、「月に人間が行く時代に、重油処理をするのに”ひしゃく”しかないのか」と嘆いておられました。しかし人間の力とは所詮こんなもので、何事もないときは自然の力を凌駕するようなことができても、一つ不測の事態が発生すれば泥縄式のことしかできないことを、わたくし達は肝に銘ずるべきだと思います。そして自然の前にもっと謙虚であるべきだと思います。
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