2014年1月28日火曜日

小野田さんが逝く

 小野田さんが亡くなられました。91歳とのことですが、長いジャングル生活を生き抜かれた方にしては少し早過ぎる気がします。1974年でしたか、彼がフィリピンのルバング島で発見されたとき終戦を信じず、「解除命令がない限り、戦闘はやめない」と語り、かつての上官がわざわざ現地に赴き、任務解除命令を出してから帰国するという、当時の我々には信じがたい強固な精神力に圧倒され、「西洋は契約の社会、日本は忠義の社会」とは云うものの、その軍人としての忠誠心に感激したことを覚えています。しかし帰国後わずか半年後にはブラジルへの移住を決断され、「なぜ日本でゆっくりされないのか」と訝ったことを覚えています。しかし当時の日本は、小野田さんには余りにも物質的に恵まれ過ぎ、自由勝手で価値観が全く違っており、馴染めなかったのかも知れません。また、マスコミから「軍人精神の権化」とか「軍国主義の亡霊」と、持ち上げたりたたいたり両極端の扱いを受け、嫌気がさしたのかも知れません。
 
 
ところで私はいま、たまたま「永遠のゼロ」(百田尚樹、講談社)という小説を毎晩寝る前に読んでいて、「ゼロ戦」搭乗員たちの常に死と向き合った過酷な生きざまに、深い感銘を受けているのですが、ジャングルでの全く異なる戦争体験とはいえ、生死を賭けて生きてこられた当時の小野田さんの心境が、いまはとても分かる気がします。小説に無事に帰国できたある兵士の話しが出てきます。帰国後結婚し、子供が小学生になったとき運動会に出かけ、子供たちに声援を送る父親たちとの楽しい雰囲気のさなか、突然十年前の戦争中のことが思い出され、するとあの戦争で亡くなった大勢の男たちの無念さが胸にこみ上げ、涙が止まらなくなったというエピソードです。平和ボケですっかり忘れられた何でもない日常生活の大切さ、元気に生きておられることの有難さがシミジミと伝わってきます。小説ではまた、日本の劣勢が色濃くなってきたころ、搭乗員が全員集められ、上官から「特攻攻撃をする。志願する者は前に出ろ」と神風(最初は「しんぷう」と読んだらしい)特別攻撃の始まったときの話しが出てきます。いかに毎日生命を懸けて戦ってはいても、そこにはまだ「生きる一縷の望み」があります。しかし特攻となると生きる望みは全く絶たれ、最初は誰も動かなかったそうです。しかし「行くのか、行かないのか!」と声を張り上げられ、つられるように全員が前に出たと云います。このようにして選ばれ、最初に全機体当たりに成功して大戦果を挙げた敷島隊隊長の関大尉は、当時「軍神」として日本中にその名を轟かせ、一人息子を失った母は「軍神の母」としてもてはやされたそうです。しかし戦後は一転して戦争犯罪人の母として村八分の扱いを受け、息子の墓を建てることさえ許されず、また、無事に帰国した「ゼロ戦搭乗員」たちへの扱いも、似たようなものだったと云います。まことに身勝手なものです。戦争はほんの一握りの人間たちの無責任な判断で実行され、残りの大多数の人間の生命、運命がそれに翻弄されるのです。

小野田さんはその後、日本で起きた「金属バット事件」をブラジルで知り、子供たちの力になりたいと日本に戻り、小野田自然塾を開いて約2万人もの子供たちに、キャンプを通してたくましく生きることを教えられました。「人間は強くなければ、人にやさしくできない」と、かなり危険なキャンプ体験もさせたようですが、一方で子供たちへの教育を通し、小野田さん自身もかなり柔和な顔つきになっていかれたと云います。戦争はもちろん過酷な運命を人に強要しますが、しかし平和であればあったでまた厳しい現実があり、それを子供たちが運命として背負い、それなりに苦しんで生きていることを理解されたのかも知れません。いずれにしても小野田さんの言葉、「死を意識しないことで、日本人は生きることをおろそかにしてしまっていないだろうか」は、いまの我々にとって非常に重く、「ゼロ戦搭乗員」たちの叫び声も重なって聞こえてくる気がします。
 ご冥福をお祈りします。

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