私が「ゼロ戦」という戦闘機を始めて見たのは、いまから40年ほど前に訪れたアメリカのスミソニアン博物館に於いてでした。私は太平洋戦争勃発の年に生まれたのですが、戦争の体験といっても、B-29という爆撃機が岐阜市を襲った時に、一度母親に連れられて防空壕に逃れたのをかすかに覚えている程度で、ほとんど記憶がありません。だからゼロ戦を見ても「これがゼロ戦か、なぜ展示されているのだろう?」くらいの考えしかありませんでした。しかしその後「零戦燃ゆ」(柳田邦男、文春文庫)という小説を読み、ゼロ戦が日中戦争から太平洋戦争にかけ、まさに向かうところ敵なしの世界最高の戦闘機で、だからアメリカはその性能解明に血眼となり、アリューシャン列島近くに不時着したゼロ戦をほぼ無傷状態で回収するのに成功し、それを徹底的に調査したという話しを知り、なぜ展示されていたかの理由が分かると同時に、それがそのゼロ戦だったかも知れないと後で残念に思った次第です。小説によるとその後アメリカは戦闘員の身を守る防御設備を強化したり、被弾に強い材質の戦闘機づくりに力を入れ、その分重くなった機体は超高馬力のエンジンを開発して補い、重装備のグラマンを作ったと云います。これに対しゼロ戦は世界最速ながら小回りが利く、まさに身軽さが身上であったため被弾には弱く、戦闘員の身を守る防御設備も不十分だったのですが、しかしその圧倒的強さに慢心して後発機の開発が遅れ、しかも無線技術が劣り、またレーダーの開発に遅れを取り、それに物量差が加わってやがてゼロ戦は段々と追い詰められ、しかも技能的に極めて優秀であった数多くの戦闘員を失い、その補充が利かないなか「カミカゼ特攻」に突き進んでいったということです。
今回なぜゼロ戦の話しを持ち出したかというと、子供が置いていった本のなかに「永遠のゼロ」(百田尚樹、講談社)という小説があり、それを読んでゼロ戦戦闘員たちの過酷な生きざまを知ったからです。ゼロ戦の性能もさることながら、その戦闘員たちの技量は当時の世界最高レベルにあり、だから当初は無敵を誇ることができたわけです。しかし段々と戦況が不利になってくると、ニューギニア近くのニューブリテン島にあったラバウル基地から1,200キロほど離れたガダルカナル島まで、毎日のように攻撃に出かけたと云います。青森から博多当りまで攻撃に出かけるようなもので、これもゼロ戦の航続距離が3,000キロと、当時の世界の戦闘機の数百キロに比べ桁外れであったからできたことで、レーダーのない時代に目印のない洋上を飛んで行って戦闘し、そしてまたラバウルまで帰ってくるのですから、いかに戦闘員たちにとって過酷な作戦だったかが分かります。そしてやがて「カミカゼ特攻」に志願させられるのですが、重い爆弾を搭載するとスピードがぐんと落ち身動きが取れず、他のゼロ戦に守られての出撃となるのですが、アメリカはそれをレーダーで察知し、何十倍ものグラマンを優位な位置に待機させて待ち構えているのですから、ほとんどの特攻が「無駄死」になったと云います。それでも上層部は出撃をやめず、特にこの「カミカゼ特攻」では学徒動員させられた優秀な人材が数多く失われたと云います。戦闘員の養成には非常に多くの知識・技能を教え込む必要があり、短期間に養成するには優秀な学生をつぎ込まざるを得なかったのです。
永遠のゼロを読んで、大勢の人間の運命を左右する政治家や、軍の指導者たちの責任の取り方について深く考えさせられました。そういう人たちには大言壮語を吐く輩が多く、部下には「国家、天皇陛下のためだ、俺も後から行く」と勇ましいことを云って厳しい命令を下しておきながら、自分たちのこととなると「不可解な撤退」をして、戦局を取り返しのつかないものにしておきながら、責任があいまいなままの指揮官が多いと云います。また、戦後、「カミカゼ特攻」で亡くなられた方々の家族、生きて帰ってきた特攻隊員たちが、「戦争犯罪人」というレッテルを張られ厳しい目を向けられたとき、果たして政治家たちが身を挺して彼らを守ったかということです。いま安倍首相の靖国神社への参拝が大きな問題になっています。「国家のために生命をささげた人たちに、尊崇の念をもって参拝する」という一国の首相の立場は分かります。しかし問題はそこで安らかに眠っている人たちの気持ちです。彼らが「靖国で会おう」といって散っていったことは事実でしょう。しかしそれは自分たちが再会するための居場所であって、選挙目当ての政治家たちに参拝してもらうための場所ではなく、彼らにとってはハタ迷惑かも知れません。「カミカゼ特攻」に選ばれた人たちの遺書、手紙、歌には勇ましいものが多いそうです。しかしそれは上官の検閲があったり、家族に迷惑がかからないようにといった配慮があってのもので、その行間にはむしろ「生きたい」という切実な気持ちがにじんでいるそうです。そうした彼らの気持ちを本当に真剣に受け止めるなら、政治家たちは参拝と同時に「我々はもっと真面目に生きるべき」ことを若者、国民に訴え、そうした社会の実現にそれこそ生命をかけるべきではないでしょうか。いまの世の中、イジメによる自殺、ストーカーによる殺人、「だれでもよかった」という通りすがりの殺傷、あまりにも生命を粗末にした事件が多すぎます。また、美食に走ってダイエットしたり、ジャンクフードで健康を損ね、それを薬やサプリメントで簡単に解消しようとする風潮、これも生命を大切にしているとは云えません。もう少し授かった生命の重みを真剣に考えるべきではないでしょうか。
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