2014年3月8日土曜日

座禅

 わが家から100mほどのところに「河西寺」というお寺(臨済宗妙心寺派)があります。そこではずっと座禅会が行われていて、私も今から10年以上も前に一度参加して5~6年通ったのですが、地元自治会の役員を引き受けたとき地区行事に追われるなか、ついつい足が遠のいて4~5年のブランクを作ってしまいました。その間にお寺では住職の世代交代があり、新しくやってこられた若オッサンが新たに座禅会を始められ、1年ほど前からまた参加しています。
 座禅会ではまず全員が「般若心経」を始め3つほどお経を唱え、その後に座禅を組みます。以前のオッサン(いまは隠居されています)のときは座禅の時間は大体20分くらいで、その後に1時間ほどの茶話会がありました。参加者は大体5~6人で、私より10歳くらい年上の方たちばかりで、それこそ戦争体験、昔話からいまどきの社会風潮、ニュースなど、いろいろなことをオッサンを交えて談笑しました。オッサンはかつて宮津高校で歴史の先生をやっておられただけに歴史に詳しく、また話題が豊富で、毎日曜日の朝6時半からの座禅会は、この座談が楽しみで参加していたようなものでした。
ところで若オッサンの方は前住職に比べると結構厳しく、座禅は線香の火が消えるまでの30分くらいのものを、5分ほどの休憩をはさんで2回組みます。また、足も素足で両足を組むように求められます。しかし私は足の筋肉が太くて両足組むのが難しく、片足だけで許してもらっています(また冬の間は靴下も許してもらっています)が、それでも20分も経つと足を組んでいるのが段々と苦痛になり、その内に腰や肩までがおかしくなって身体中がワナワナと震えだし、とても「調息」(呼吸を整える)や「瞑想」どころでなくなり、「早く時間がきてくれ!」と祈るばかりの状態になります。2回目の座禅のときは「警策」(肩をたたく板)を持って回られ、私も2~3度たたかれたことがあります。別に痛くはないのでどうということはないのですが、やはりたたかれたくはないので2回目の座禅のときはかなり緊張します。そして目を盗んでは必死に身体の立て直しを図ることになります。いま座禅会に来ているのは大体6~7人で、年齢は私より5~10歳若返りました。もちろん狭い地区なので全員よく知っていますが、いまは座禅の後はお茶を飲んで散会し、茶話会はなく、座禅会も月に2回のためお互いの会話はほとんどなく、なんとなく淡白な感じのものになっています。私にとってはどちらかと云えば苦痛の場になってしまったのですが、熱心に通っておられる他の人は、何を求めて通っておられるのか不思議に思うことがあり、一度聞いてみたいと思っています。というも前住職は「座禅を組むと頭がスッキリして思考がまとまりやすい」とよく云っておられましたが、私自身はあまりそうした実感を持ったことがなく、むしろ茶話会があった時はその談笑から学ぶことが多かったように思うからです。座禅を組むときはいつも、「悟る」とは一体どういうことだろうと考えたりします。むかし巨人軍の川上選手が現役時代、「ピッチャーの投げたボールが止まって見えた」と云っていた話しや、イチロー選手が語る言葉を聞くと、一芸に突出した人が到達する「ある境地」を感じます。そしてそれは悟りに通じる境地なのかと考えたりします。一方で子供のころに読んだ「象とメクラ」の話しを思い浮かべます。鼻に触ったメクラは「象は筒のようなものだ」と感じ、耳に触ったメクラは「ウチワのようなものだ」と感じ、しっぽに触ったメクラは「ひものようなものだ」と感じたという話しです。つまり同じ事象も視点を変えると全く違って見えることを諭した話しで、この話しからすると人生体験の少ない者がいたずらに座禅を組んで瞑想しても、何も見えてこないのではといぶかしく思ったりします。だから禅の修行では師からいろんな難問を問われ、それに即答できるか「禅問答」という試練があるのだろうと思います。しかし同じ世界の人間同士が禅問答をしていても視点が限られ、なかなか悟りの境地に達しえないのではと考えたりもします。かつて茶話会があったころオッサンに、「本来人間を救うべき宗教が戦争を引き起こしたり、同じ宗教がいくつもの宗派に分かれていがみ合うのはおかしいのでは?」と聞いたことがあります。オッサンはただ笑って頭をかいておられましたが、所詮、宗教と云っても人間が作ったもの、悟りのレベルからは程遠いものなのかも知れません。だから座禅も「有酸素運動」の一つぐらいに考えておいた方がよいのかも知れません。
 ところで俳人の正岡子規は、悟りとは「死ねと云われたらいつでも死ねる覚悟のできた境地」と最初考えたそうです。しかしその後「どんな境遇に置かれても生きようとする気持ちが備わった境地」と考え直したと聞いたことがあります。生死をさまよって生きた子規らしい考え方の変化ですが、後の生命を大切にしようとする考えには共鳴できるものを感じます。ちなみに私自身は悟りの境地を「カエルにしょんべん」と思っています。しょんべんをひっかけられても涼しい顔のカエルの心境です。とても到達できませんが。
 

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