2014年8月20日水曜日

認知症

 テレビで認知症で行方不明になっている人が1万数千人もいると云っていました。認知症の人は勝手に徘徊するため、チョッと目を離したすきに忽然と居なくなってしまうのだそうです。事故にあったり他人に迷惑をかけていないかと、家族の心労は相当なものだと云っていました。いま日本には認知症と云われる人が800万人もいるそうです。この数は鎌倉時代の日本の総人口に相当し、その数の大きさを思い知らされます。私もいま73歳。年齢的にはいつ認知症になってもおかしくない年代にあり、とても他人ごとには思えません。認知症には糖尿病などの生活習慣病の関わりも大きいようですが、やはり生きがいを持って積極的に頭を使うことが大切なのではないでしょうか。
先日テレビで「少年H」という映画がありました。丁度文庫本で読んでいたところであり、早速見てみました。少年Hのオヤジさんは洋服屋をやっていたのですが、太平洋戦争が始まると商売がやりづらくなり、消防士になります。しかし空襲で神戸市が焼き野原となり、すべてをなくしてしまうと、それまで何かと少年Hの心の支えであったオヤジさんが、すっかり魂の抜けた状態になってしまいます。しかし少年Hとお母さんが火事のとき必死に運び出したミシンを焼け跡に見つけ、掘り出し、修理し、動くようにして服が作れるとすっかり元気を回復し、また、少年Hも親元を離れる決心をするという実話に基づくストーリーでした。オヤジさんが元気を取り戻すシーンには、人間にとり「人のために働く」ということが、いかに大きな力、生きがいになるかのメッセージが込められているように思いました。
 ところで日本でテレビが普及し始めたころ、大宅壮一という評論家が「一億総白痴化」とテレビ文明を憂えていました。本とか新聞、ラジオのように、話しを読んだり聞いたりするときには、私たちはその情景をいろいろ空想したり、連想したりします。しかしテレビはそうした情景もすべて提供するため、見る者は頭を使う必要が無くなり、頭の使い方も非常に受動的になって、人間が馬鹿になってしまうのではと心配されての言葉だったと思います。いまの認知症の多さがすべてテレビ文明のセイだとは思いませんが、ただ先日、お盆で帰省していた長男家族と車で出かけたとき、「カーナビ」で起きたチョットした出来事に、「便利になりすぎる」ことは私たちから身体能力、五感をドンドン奪って、その分私たちは無能化していくのではないかと、改めて大宅壮一の言葉を思い出した次第です。
 当日は長男の車で豊岡市の「玄武洞」に出かけました。出かける前に長男が「げんぶどう」と打ち込むといくつものメニューが現れ、「どれかナー」と探しているので、「これだろう」と一つのメニューを押して出かけました。当然長男は「カーナビ」を見ながら運転し、私は見慣れた景色を見ながら横に乗っていました。豊岡市内に入ると玄武洞への標識が目に付き始めましたが、その内にその標識の距離とカーナビの距離が違うことに気が付きました。「変だナー」と思いながら乗っていると「玄武堂」というお菓子屋さんに着きました。メニューの選択間違いがとんだ笑い話になったのですが、そのとき頭を使うか使わないかの大きな差のようなものを感じました。わが家の車にはカーナビはなく、わが家ではどこへ行くにも10年ほど前に買ったロードマップを携えて出かけます。出かける前に大よその道順、場所を頭に入れ、現場に近づくと家内がロードマップを見ながら案内します。10年も経つと道が地図とはすっかり違っていたり、また、家内が方向音痴のためときどき方向指示を間違えたりします。しかしその点私は晴れの日でも曇りの日でも、太陽の位置から東西南北のどちらに向かっているかの勘に優れ、大体これまで目的地にはほとんど一発で到着できています。これをわが家では「家内ナビ」とか「勘ナビ」と呼んでいます。ときどき「喧嘩ナビ」にもなりますが、これの良いところは目的地へ向かうのに常に標識を探したり、方向や周囲の雰囲気に勘を働かせたり、記憶を呼び起こしたり、常に頭をフル回転させることです。だから数年前に初めて走った道でもよく覚えていて、「アレ! この道前に走ったことあるナー」、「確かこの先に郵便局があったのでは」と云っていると本当に郵便局が現れるのです。カーナビではこういった体験はあまりないのではと思います。
 宮津市でこの8月から取り組み始めた「”ピンと活き生き”宮津ライフ」は、生活習慣病や認知症の予防をかなり意識していますが、高齢者が常に地域社会のことを考え、行動することは、よい生きがいとなり、また頭を使うことになり、認知症の予防につながるのではと期待しています。

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