2014年4月4日金曜日

2013年度のまとめ

 昨年度の「エコの環」活動では生ごみ処理機「たいぞう君」を1台増設し、地区内3か所にある4台の処理機で4人のボランティアが月に480kgほどの生ごみを処理し、できた堆肥で6人が無化学肥料、無農薬、無畜糞堆肥にこだわった野菜づくりを進めてきました。できた野菜は最初2店舗で販売していましたが、その1つが店を閉じることになり、それを機にもう一店舗での販売も止め、いまは決まった顧客に野菜を売って歩く行商の形を取っています。この方が私たちの野菜を心待ちにしてくれる人もいて、無駄が少ないと考えたからです。昨年度の野菜販売額は下図に示すように51万円余となり、一昨年度の23万円を大きく超えることが出来ました。しかし8~9月頃、野菜栽培の中心であった2人が共に腰痛を患い、肝心な稼ぎ時に大きな戦力を失い、残念な結果でもありました。高齢者による事業だけに病気も含め、今後もこうしたハプニングをある程度予測しておく必要があるのかも知れません。

野菜販売額の推移
ところでいまは堆肥の量が全然足りず、野菜の栽培量に限度がある状態で、もっと生ごみ処理量を増やす必要に迫られています。それには生ごみの収集範囲・量の拡大を図っていく必要があり、どうしてもパートの雇用が必要となってきます。そこでその雇用費の手当てをすべく、アチコチに助成金の申請を行ったのですが、雇用費となると助成対象になるものが少ない上に審査も厳しく、残念ながらどこにも採択されませんでした。ただ助成金とは違うのですが、エコビジネスの芽を見つけ育てるコンテスト「eco japan cup 2013」というのがあり、応募したところそれは最終選考を通過し、「東京で最終審査をするので、パネルの製作とプレゼンテーションの準備をお願いしたい」旨の連絡を受けました。それが審査当日の丁度10日前のことであり、あまりにも慌ただしく、しかも東京となると気分的にも遠すぎて、折角ながら辞退しました。すると主催者側でパネルの製作と5分間のプレゼンテーション(本来の審査は10分間)をするので、パネル内容のチェックとスライドを作ってほしいと云われ、結局代役参加となりました。そんなことから審査の結果は全然当てにしていなかったのですが、しかし意外にも「東急グループ賞」というのに選ばれ、賞金10万円を頂くことができました。いつも青息吐息でやっているだけに、この賞金は大変に助かりました。あとで聞くと審査会は日本最大級の環境展示会「エコプロダクツ」の会場(3日間の来場者数16万人超)で実施され、その模様は世界にネット配信されたということで、参加しておけばよったと反省しているところです。右下図は授賞式(これも欠席)で贈られた賞状と目録です。
宮津市では昨年の秋、地域住民・事業者・各種団体からなる「みやづ環の地域づくり」が発足し、私が所属する部会ではいま、私たちの「エコの環」を中心に地産地消を進めることを検討しています。一方、京都府では、これまで「阿蘇海環境づくり協働会議」が進めていた阿蘇海の清掃活動、環境学習、調査研究に、もっと流域住民・団体を巻き込み、新たな阿蘇海将来ビジョン、具体的取り組み内容を決めたいとして、昨年の秋から4回ほどワークショップを開催していましたが、この度「阿蘇海流域環境改善案」を募集したことから、早速私たちの「エコの環」やへどろ調湿材・ヒートポンプについて提案を行ないました。今年度はこうした取り組みがさらに具体化し、私たちの活動が飛躍できることを期待しています。





2014年3月25日火曜日

会計処理法

 今年の冬はいつになく寒さが厳しく、また長く感じられました。しかしさすがに「彼岸」を迎えると一気に春らしい陽気に変わるから不思議です。そして解放的な気分になる一方で、毎年この時期はやがて始まる一年の締めの作業-多くの報告書類の作成、届出業務、総会など-が頭をよぎり、いささか憂鬱になる時期でもあります。とくに私たち技術系の人間にとって会計書類の作成は、ほとんどその意味を理解することもなく、ただ決められた様式に従って前年度分の書き換え作業をやっているだけですが、ときに大きな考え違いをしていてあとで然るべきところから指摘を受けても、十分に内容が呑み込めないようなことがあったりして、いつもその作成作業には一抹の不安を抱えてやってきました。
 2012年度より会計報告書の一つ「収支計算書」が「活動計算書」に移行することになり、それを機に経理のことを少し勉強しました。そして金銭取引に未収金とか前払金、あるいは未払金、前受金、借入金などが発生するようになると、資産とか負債といった概念が必要となり、活動計算書でないと説明しづらくなることを学びました。そして昨年の今頃でしたか、エクセルで作った出納帳をあとで自動仕訳して、総勘定元帳を簡単に作れるようにしたことや、またそれまで使っていた金銭収支表を資産・負債の動きも分かるものに作り変え、活動計算書や貸借対照表が簡単に作れるようにしたことを紹介しました。しかしその後半年も過ぎると、経理屋でないがためその計算内容をすっかり忘れてしまい、日々「収支一覧票」に金銭を入力することで出納帳残高、資産/負債額、正味財産額などが表示されても、なぜそうした結果になるのかが分からなくなり、これはヤバイというので昨年の暮れに自分用の「取説」を作成し、同時に収支一覧票に表示される数値の下に計算式を書き込みました。すると自分でも結構納得のいくものが出来上がり、折角作ったのだからとむかし会社勤めをしていた時の同僚で、経理畑一筋だったMさん(滋賀県在住)に取説をはじめ一切の書類を送付し、チェックをお願いしました。最初は理系の人間の作ったドロクサイ会計処理法に、かなり戸惑いや違和感もあったようですが、そこはむかし同じ釜の飯を食った仲間、何度も何度もメールでのやり取りを交わし、時には電話で直接確認し合ったりして、大きな誤りを正したり、構成を変えたり、細かい語句の修正などもしてもらいました。そして最終的に京都府の府民力推進課の担当者にもチェックをお願いしました。
 下に示すのが新たに作り直した収支一覧票です。日々の金銭の出入りを入力すれば、金銭収支の他に正味財産の動きも瞬時に分かり、活動計算書、貸借対照表、財産目録としても利用できます。また、市販のソフトと違い計算内容が一目瞭然であり、自分なりに自由に作り変えることも可能です。興味のある方はご連絡ください。取説やテンプレートをお送りします。


2014年3月17日月曜日

リケジョ(つづき)

 小保方さんの「STAP細胞」に疑惑の目が向けられています。世界を仰天させる画期的発見とされ、それも日本には数少ないリケジョによる成果と云うことで、大いに期待をしていただけに本当に残念です。先日理研の中間報告会が行われましたが、いろいろ論文の不備が浮き彫りになっただけで、肝心のSTAP細胞が存在するかどうかはハッキリせず、小保方さんが発表会見で満面の笑みを浮かべながら指差していた、「グリーン色に染まった物体」が一体何なのかは、明らかにならないままでした。
それにしても小保方さんの研究者としての資質には、本当にがっかりしました。他人の文献をそっくりそのまま無断引用するなど言語道断と云えます。人からものを借りるときは挨拶かお礼を云うのが当たり前で、何も云わずに自分のものにしては泥棒と同じで、全く倫理に欠けると云われても仕方ありません。いま大学生にレポートを書かせると、インターネットからの「コピペ」(コピー&ペースト)が多いと云います。しかしアメリカではたとえ宿題のレポートでも、コピペと分かれば退学させられるという話しを聞きます。剽窃はそれくらいの厳しさが求められる行為なのです。また、写真の流用とか修正もうっかり取り違えたとか、見やすくするために行ったとか云っておられるようですが、少なくとも責任ある研究者なら自分の論文に載せる写真を取り違えることなど絶対にありません。それに写真に手を加えたら「改ざん」になることぐらいは子供にでも分かることです。
 私も理系の人間だから分かるのですが、研究者は自分が解明しようとする事象に対し、常にあるモデルを思い描きます。つまり解明しようとする事象はこうしたモデルに従って起きるのではと考えるわけです。そして実験でそのモデルが正しいか間違っているかを実証するわけです。モデルはもちろん研究者の想像力に負うところが大きく、世間の常識を覆すような発想もあれば、チマチマした発想もあるわけです。その意味では小保方さんの発想は常軌を逸したものと云え、実証はかなり難しく、だから発表会見でも「なかなか成果が出ず泣きあかしたり、今日で実験を最後にしよう、明日でやめようと何度も思った」と語っておられたのだと思います。しかしここで注意しなければならないのは、モデルとして考えた発想が正しいかどうかは分からないということです。私たちが生きていくには原理原則にこだわっていもだめで、環境に応じて変化することが大切と云われるように、自分の描くモデルも実験の結果によって、それに順応して常に修正することが必要なのです。そうでないと別の理由でそれらしい結果が出たときに、その説明に苦しむことになったり、折角実験が教えてくれる重要な事実を見逃すことになってしまうからです。ノーベル賞級の発見も実験ミスから見つかったものが非常に多いのです。つまり実験には自分の発想に固執せず、常に視点を変える融通性が必要であり、そのためにも実験には誠実、かつ謙虚に取り組む姿勢が求められるのです。詳しいことは分かりませんが、もしグリーン色の細胞が本当に万能細胞なら、小保方さんの云う「ストレス」で発生しようがそれ以外の理由で発生しようが、「できていることは事実」であり、それはそれで素晴らしい発見であると云えるのですが。
 マスコミによると若い研究者が理研で働くには、1年契約で最長5年が基本であると云います。しかし研究生活で1年契約と云うのはかなりのプレッシャーになるハズです。毎年毎年それなりの成果を出し続けることは難しく、まして思い描くモデルが大きければ大きいほど、実証には時間がかかるからです。小保方さんのユニットリーダーというポジションがどのようなものかは分かりませんが、直接の上司もいなかったと云われる中、弱冠30歳の若い研究者には相当な重圧であったことは間違いなく、その若さでは正直、「Nature」に投稿できるだけの実力があったかどうかも疑われます。それを考えると理研の責任も大きく、これを機会に若い研究者を国家としてどう育てていくのか、真剣に考える必要があるのかも知れません。




2014年3月8日土曜日

座禅

 わが家から100mほどのところに「河西寺」というお寺(臨済宗妙心寺派)があります。そこではずっと座禅会が行われていて、私も今から10年以上も前に一度参加して5~6年通ったのですが、地元自治会の役員を引き受けたとき地区行事に追われるなか、ついつい足が遠のいて4~5年のブランクを作ってしまいました。その間にお寺では住職の世代交代があり、新しくやってこられた若オッサンが新たに座禅会を始められ、1年ほど前からまた参加しています。
 座禅会ではまず全員が「般若心経」を始め3つほどお経を唱え、その後に座禅を組みます。以前のオッサン(いまは隠居されています)のときは座禅の時間は大体20分くらいで、その後に1時間ほどの茶話会がありました。参加者は大体5~6人で、私より10歳くらい年上の方たちばかりで、それこそ戦争体験、昔話からいまどきの社会風潮、ニュースなど、いろいろなことをオッサンを交えて談笑しました。オッサンはかつて宮津高校で歴史の先生をやっておられただけに歴史に詳しく、また話題が豊富で、毎日曜日の朝6時半からの座禅会は、この座談が楽しみで参加していたようなものでした。
ところで若オッサンの方は前住職に比べると結構厳しく、座禅は線香の火が消えるまでの30分くらいのものを、5分ほどの休憩をはさんで2回組みます。また、足も素足で両足を組むように求められます。しかし私は足の筋肉が太くて両足組むのが難しく、片足だけで許してもらっています(また冬の間は靴下も許してもらっています)が、それでも20分も経つと足を組んでいるのが段々と苦痛になり、その内に腰や肩までがおかしくなって身体中がワナワナと震えだし、とても「調息」(呼吸を整える)や「瞑想」どころでなくなり、「早く時間がきてくれ!」と祈るばかりの状態になります。2回目の座禅のときは「警策」(肩をたたく板)を持って回られ、私も2~3度たたかれたことがあります。別に痛くはないのでどうということはないのですが、やはりたたかれたくはないので2回目の座禅のときはかなり緊張します。そして目を盗んでは必死に身体の立て直しを図ることになります。いま座禅会に来ているのは大体6~7人で、年齢は私より5~10歳若返りました。もちろん狭い地区なので全員よく知っていますが、いまは座禅の後はお茶を飲んで散会し、茶話会はなく、座禅会も月に2回のためお互いの会話はほとんどなく、なんとなく淡白な感じのものになっています。私にとってはどちらかと云えば苦痛の場になってしまったのですが、熱心に通っておられる他の人は、何を求めて通っておられるのか不思議に思うことがあり、一度聞いてみたいと思っています。というも前住職は「座禅を組むと頭がスッキリして思考がまとまりやすい」とよく云っておられましたが、私自身はあまりそうした実感を持ったことがなく、むしろ茶話会があった時はその談笑から学ぶことが多かったように思うからです。座禅を組むときはいつも、「悟る」とは一体どういうことだろうと考えたりします。むかし巨人軍の川上選手が現役時代、「ピッチャーの投げたボールが止まって見えた」と云っていた話しや、イチロー選手が語る言葉を聞くと、一芸に突出した人が到達する「ある境地」を感じます。そしてそれは悟りに通じる境地なのかと考えたりします。一方で子供のころに読んだ「象とメクラ」の話しを思い浮かべます。鼻に触ったメクラは「象は筒のようなものだ」と感じ、耳に触ったメクラは「ウチワのようなものだ」と感じ、しっぽに触ったメクラは「ひものようなものだ」と感じたという話しです。つまり同じ事象も視点を変えると全く違って見えることを諭した話しで、この話しからすると人生体験の少ない者がいたずらに座禅を組んで瞑想しても、何も見えてこないのではといぶかしく思ったりします。だから禅の修行では師からいろんな難問を問われ、それに即答できるか「禅問答」という試練があるのだろうと思います。しかし同じ世界の人間同士が禅問答をしていても視点が限られ、なかなか悟りの境地に達しえないのではと考えたりもします。かつて茶話会があったころオッサンに、「本来人間を救うべき宗教が戦争を引き起こしたり、同じ宗教がいくつもの宗派に分かれていがみ合うのはおかしいのでは?」と聞いたことがあります。オッサンはただ笑って頭をかいておられましたが、所詮、宗教と云っても人間が作ったもの、悟りのレベルからは程遠いものなのかも知れません。だから座禅も「有酸素運動」の一つぐらいに考えておいた方がよいのかも知れません。
 ところで俳人の正岡子規は、悟りとは「死ねと云われたらいつでも死ねる覚悟のできた境地」と最初考えたそうです。しかしその後「どんな境遇に置かれても生きようとする気持ちが備わった境地」と考え直したと聞いたことがあります。生死をさまよって生きた子規らしい考え方の変化ですが、後の生命を大切にしようとする考えには共鳴できるものを感じます。ちなみに私自身は悟りの境地を「カエルにしょんべん」と思っています。しょんべんをひっかけられても涼しい顔のカエルの心境です。とても到達できませんが。
 

2014年2月26日水曜日

永遠のゼロ

 私が「ゼロ戦」という戦闘機を始めて見たのは、いまから40年ほど前に訪れたアメリカのスミソニアン博物館に於いてでした。私は太平洋戦争勃発の年に生まれたのですが、戦争の体験といっても、B-29という爆撃機が岐阜市を襲った時に、一度母親に連れられて防空壕に逃れたのをかすかに覚えている程度で、ほとんど記憶がありません。だからゼロ戦を見ても「これがゼロ戦か、なぜ展示されているのだろう?」くらいの考えしかありませんでした。しかしその後「零戦燃ゆ」(柳田邦男、文春文庫)という小説を読み、ゼロ戦が日中戦争から太平洋戦争にかけ、まさに向かうところ敵なしの世界最高の戦闘機で、だからアメリカはその性能解明に血眼となり、アリューシャン列島近くに不時着したゼロ戦をほぼ無傷状態で回収するのに成功し、それを徹底的に調査したという話しを知り、なぜ展示されていたかの理由が分かると同時に、それがそのゼロ戦だったかも知れないと後で残念に思った次第です。小説によるとその後アメリカは戦闘員の身を守る防御設備を強化したり、被弾に強い材質の戦闘機づくりに力を入れ、その分重くなった機体は超高馬力のエンジンを開発して補い、重装備のグラマンを作ったと云います。これに対しゼロ戦は世界最速ながら小回りが利く、まさに身軽さが身上であったため被弾には弱く、戦闘員の身を守る防御設備も不十分だったのですが、しかしその圧倒的強さに慢心して後発機の開発が遅れ、しかも無線技術が劣り、またレーダーの開発に遅れを取り、それに物量差が加わってやがてゼロ戦は段々と追い詰められ、しかも技能的に極めて優秀であった数多くの戦闘員を失い、その補充が利かないなか「カミカゼ特攻」に突き進んでいったということです。
今回なぜゼロ戦の話しを持ち出したかというと、子供が置いていった本のなかに「永遠のゼロ」(百田尚樹、講談社)という小説があり、それを読んでゼロ戦戦闘員たちの過酷な生きざまを知ったからです。ゼロ戦の性能もさることながら、その戦闘員たちの技量は当時の世界最高レベルにあり、だから当初は無敵を誇ることができたわけです。しかし段々と戦況が不利になってくると、ニューギニア近くのニューブリテン島にあったラバウル基地から1,200キロほど離れたガダルカナル島まで、毎日のように攻撃に出かけたと云います。青森から博多当りまで攻撃に出かけるようなもので、これもゼロ戦の航続距離が3,000キロと、当時の世界の戦闘機の数百キロに比べ桁外れであったからできたことで、レーダーのない時代に目印のない洋上を飛んで行って戦闘し、そしてまたラバウルまで帰ってくるのですから、いかに戦闘員たちにとって過酷な作戦だったかが分かります。そしてやがて「カミカゼ特攻」に志願させられるのですが、重い爆弾を搭載するとスピードがぐんと落ち身動きが取れず、他のゼロ戦に守られての出撃となるのですが、アメリカはそれをレーダーで察知し、何十倍ものグラマンを優位な位置に待機させて待ち構えているのですから、ほとんどの特攻が「無駄死」になったと云います。それでも上層部は出撃をやめず、特にこの「カミカゼ特攻」では学徒動員させられた優秀な人材が数多く失われたと云います。戦闘員の養成には非常に多くの知識・技能を教え込む必要があり、短期間に養成するには優秀な学生をつぎ込まざるを得なかったのです。
 永遠のゼロを読んで、大勢の人間の運命を左右する政治家や、軍の指導者たちの責任の取り方について深く考えさせられました。そういう人たちには大言壮語を吐く輩が多く、部下には「国家、天皇陛下のためだ、俺も後から行く」と勇ましいことを云って厳しい命令を下しておきながら、自分たちのこととなると「不可解な撤退」をして、戦局を取り返しのつかないものにしておきながら、責任があいまいなままの指揮官が多いと云います。また、戦後、「カミカゼ特攻」で亡くなられた方々の家族、生きて帰ってきた特攻隊員たちが、「戦争犯罪人」というレッテルを張られ厳しい目を向けられたとき、果たして政治家たちが身を挺して彼らを守ったかということです。いま安倍首相の靖国神社への参拝が大きな問題になっています。「国家のために生命をささげた人たちに、尊崇の念をもって参拝する」という一国の首相の立場は分かります。しかし問題はそこで安らかに眠っている人たちの気持ちです。彼らが「靖国で会おう」といって散っていったことは事実でしょう。しかしそれは自分たちが再会するための居場所であって、選挙目当ての政治家たちに参拝してもらうための場所ではなく、彼らにとってはハタ迷惑かも知れません。「カミカゼ特攻」に選ばれた人たちの遺書、手紙、歌には勇ましいものが多いそうです。しかしそれは上官の検閲があったり、家族に迷惑がかからないようにといった配慮があってのもので、その行間にはむしろ「生きたい」という切実な気持ちがにじんでいるそうです。そうした彼らの気持ちを本当に真剣に受け止めるなら、政治家たちは参拝と同時に「我々はもっと真面目に生きるべき」ことを若者、国民に訴え、そうした社会の実現にそれこそ生命をかけるべきではないでしょうか。いまの世の中、イジメによる自殺、ストーカーによる殺人、「だれでもよかった」という通りすがりの殺傷、あまりにも生命を粗末にした事件が多すぎます。また、美食に走ってダイエットしたり、ジャンクフードで健康を損ね、それを薬やサプリメントで簡単に解消しようとする風潮、これも生命を大切にしているとは云えません。もう少し授かった生命の重みを真剣に考えるべきではないでしょうか。

2014年2月15日土曜日

スキー

 先週、2年ぶりにスキーに行ってきました。「エコの環」の野菜作りをしている人の中にスキーの好きな方がおり、「スキーに行くときは誘ってください」と以前声をかけておいたところ、誘いの声がかかり、車で1時間半ほど走ったところにある神鍋高原の「万場スキー場」まで行ってきました。私の住む地域は、神鍋以外にも鉢伏とか氷ノ山など大きなスキー場に恵まれ、冬になると身体がムズムズして血が騒ぐため、ずっとスキーを楽しんできました。さすがに60を過ぎてからは回数は減りましたが、それでもいまも年に1~2回はどこかのスキー場に出かけ、万場は3~4年ぶりでした。しかし平日(金曜日)とはいえゲレンデはガラガラで、正直びっくりしました。万場というのは神鍋の中でも非常に人気の高いゲレンデで、それこそ我々が若かりし頃(1960年代)は、朝6時前の汽車に乗り、豊岡で乗り換えて江原駅まで行き、そこでバスに乗り換えて40~50分揺られた後、そこからまたスキーを担いで30~40分かけて行ったものです。だから滑り始めるのは大体10時を回っていました。しかし当時は冬季オリンピック三冠王のトニーザイラーが主演した、「白銀は招くよ」という映画がそのテーマ曲とともに日本で大ヒットし、高度成長期とも重なって日本は超スキーブームにあり、それこそスキー場はどこもイモの子を洗う賑わいで、だから道中の苦労やリフトの長蛇の列など全く気にならず、毎日曜日、休日のほかに年休も取って、せっせとスキーに出かけたものです。1970年代になるとどこのスキー場にも駐車場が完備され、今度は駐車場探しや大渋滞に悩まされながら、万場へもよく出かけました。そして1980年代は今度は子供たちを連れ、泊りがけで出かけるようになりましたが、どこもゲレンデは拡張の一方で、リフトも2人乗りから4人掛けのものまで登場し、ゲレンデの賑わいは一向に衰えることはありませんでした。1990年代になるとさすがに仕事で足が遠のくようになりましたが、それでもたまに出かけると、いつの間にかスノーボードがゲレンデで幅を利かせるようになっており、スキーが段々とゲレンデの片隅に追いやられ、スキー人口の減少を感じてはいましたが、それにしても今回の万場の状況は、昔の大混雑を知っているだけにいささかショックでした。

今回のショックは、途中にある「名色スキー場」が営業停止にあることを知ったのがまず始まりでした。名色スキー場もかなり大きな人気スポットの一つで、子供たちを連れて何度も行ったことがあったからです。ふもとのヒッソリ閑とした雪景色は信じられない光景でした。次に驚いたのは万場の駐車場です。平日は無料なのだそうですが(これも信じられないことです)、ガラガラで20~30台しか止まっていないのです。リフト券も半日券を買う予定だったのですが、金曜日は「シニアDay」ということで、私たち高齢者は1日券をわずか2,200円で買うことができました。そしてゲレンデに出ると人影がまったく無く、たまに2~3人が滑っているのを見かける程度なのです。確かにここ数年、他のスキー場でもゲレンデがかなり空いているのを見てはいましたが、まさか万場がここまで閑散としているとは想像もしていませんでした。リフトも止まっているのがあったり、かつては10人近くが働いていたと思うリフトにも、いまは3人しか張り付いていないのです。また、ゲレンデのアチコチにあった食堂も閉じられたところが多く、昼食時に入ってもやはりガラガラで、見かけるのは高齢者ばかりで若者がいないのです。特に驚いたのは一番下のゲレンデ直下にあった宿泊設備を持った食堂で、当時は目の前のゲレンデにナイター設備があり、そこに泊まることは一種のステータス気分が味わえ、何度か泊まったことがあるのですが、そこが閉鎖になっていたのです。
 スキーの方は人影がないことをいいことに2~3本立て続けに滑り降りたところ、太ももがパンパンに張ってしまいコントロールが利かなくなり、体力には結構自信のある私も今回はへとへとに疲れてしまいました。一緒に行った人の気遣いから、結局昼食をはさんで3時間ほどで切り上げましたが、スキーでこんなに疲れたのは始めてであり、帰りに途中の温泉に寄り、ゆっくり疲れを癒して帰ってきました。費用的には温泉代も含め、スキー道具を借りた私が6,500円、連れの人は3,500円と昔に比べると半額以下で、「また行きましょう」ということになりました。
 今回の旅行でつくづく感じたのは、スキー場の有様がまさに今の日本の姿そのものになっているということでした。昔の賑わいがすっかり消えてシャッター通りが増え、高齢者だけが無料駐車、シニア券の恩恵を受けて平日にゆうゆうとスキー、温泉を楽しみ、そこには若者の姿が全く見当たらないのです。確かに私たち高齢者にとって有難いことではあるのですが、これを支えてくれている若者に何か申し訳ない気持ちが拭いきれず、やはりガラガラの温泉に2人で浸かりながら、私たち高齢者で回す「エコの環」でお返ししようと話し合ってきました。

2014年2月5日水曜日

リケジョ

 日本のリケジョ(理系の女性)が世界を驚かすスゴイ発見をしてくれました。山中教授のIPS細胞とは全く違う手法で、STAP細胞と呼ばれる万能細胞を「より安く、より早く、より安全」に作れるというから驚きです。山中教授に続く快挙に何も分からないわれわれもすっかり興奮し、私の末娘もリケジョであることから、つい心で万歳を叫んでいました(何の関係もありませんが)。山中教授がIPS細胞の開発に成功されたのは確か40歳を過ぎたばかりのころで、ずい分若いなーと思っていましたが、今度の小保方さんはまだ弱冠30歳とか。自分が30歳だったころのことを思うと、全く使命感が異なり恥ずかしくなります。それにしてもカッポウギを着て実験したり、実験室の壁をピンク色に塗り替えたり、実験器具にお気に入りの漫画キャラクターを貼ったり、スッポンを飼ったり、ずい分奔放な気がしますが、それを許している研究所や上司の方々の度量にも感心します。もっとも小保方さんは最初、STAP細胞はこれまでの万能細胞と異なり、眠っていた力を呼び覚まして自ら万能化することから、それを王子様にキスされて目覚めるお姫様になぞらえ、「P(プリンセス)細胞」と名付けようとしたようですが、さすがにそれはボツにされたとか。学校時代の友達や、先生、大学時代の恩師たちによると、とにかく頑張り屋だったということですが、それにもまして発想力がずい分他の人とは違っていたようです。テレビでどなたかが「五感が違う」と云っておられましたが、理屈の積み重ねである理系分野においても、斬新な発想にはやはり「五感」とか「感性」が非常に重要なことが分かります。その点は女性の方が理屈やメンツを重んじる男性より優れており、また、忍耐力でもずっと優れることから、今後のリケジョの活躍が大いに期待されます。

ところで今回の発見にはIPS細胞と同様、再生医療、新薬の開発などに多くの期待がかかります。それはそれで大変に喜ばしいことですが、ただ細胞を操作するということは「神の領域」に足を踏み入れることでもあります。今回の大発見に世界はただ驚いて見ているだけでなく、間違いなく猛烈な開発競争が始まるはずです。小保方さんの論文が英科学誌ネイチャーに発表された日に米メディアは、小保方さんを指導したハーバード大の教授たちの研究チームが、「すでにSTAP細胞を使って脊髄損傷をしたサルの治療を始めている」ことを伝えています。こうした競争の激化が倫理問題を置き去りにして、神の領域を冒すことにつながっていかないか非常に心配します。私も理系の人間の端くれとして思うのは、どんなに優れた薬にも副作用があるように、どんなに優れた技術にも必ず負の面があるということです。それが事前に予測できて対策が打てればよいのですが、多くはそれがごく微量の不純物の中に隠れていたり、想定外のことが起きないかぎり現れなかったり、開発段階では見逃してしまうことが多いのです。例えば福島第一原発の事故がそうです。事故が起きてはじめて「ああしておけばよかった」、「こうしておけばよかった」ということが云えるのであって、なかなか事前にはそれが分からず、あるいはそれを問題視せずに見すごし、事故が起きてはじめて負の面の重大さに気付くのです。しかし人間の技術力は想定外のことには全く無力で、泥縄式のことしかできず、解決するには天文学的なお金と多くの人の犠牲を必要とします。このように生産活動によって引き起こされる環境破壊や人的被害を「外部不経済」と呼ぶそうですが、本来はこれを内部化して生産できるようにしないかぎり経済は成り立たず、社会に甚大な不利益、不幸をもたらすだけになってしまいます。神の領域に入り込む医療活動が、今後こうしたとんでもない外部不経済をもたらす結果にならないことを願っています。