わが家から100mほどのところに「河西寺」というお寺(臨済宗妙心寺派)があります。そこではずっと座禅会が行われていて、私も今から10年以上も前に一度参加して5~6年通ったのですが、地元自治会の役員を引き受けたとき地区行事に追われるなか、ついつい足が遠のいて4~5年のブランクを作ってしまいました。その間にお寺では住職の世代交代があり、新しくやってこられた若オッサンが新たに座禅会を始められ、1年ほど前からまた参加しています。
座禅会ではまず全員が「般若心経」を始め3つほどお経を唱え、その後に座禅を組みます。以前のオッサン(いまは隠居されています)のときは座禅の時間は大体20分くらいで、その後に1時間ほどの茶話会がありました。参加者は大体5~6人で、私より10歳くらい年上の方たちばかりで、それこそ戦争体験、昔話からいまどきの社会風潮、ニュースなど、いろいろなことをオッサンを交えて談笑しました。オッサンはかつて宮津高校で歴史の先生をやっておられただけに歴史に詳しく、また話題が豊富で、毎日曜日の朝6時半からの座禅会は、この座談が楽しみで参加していたようなものでした。
ところで若オッサンの方は前住職に比べると結構厳しく、座禅は線香の火が消えるまでの30分くらいのものを、5分ほどの休憩をはさんで2回組みます。また、足も素足で両足を組むように求められます。しかし私は足の筋肉が太くて両足組むのが難しく、片足だけで許してもらっています(また冬の間は靴下も許してもらっています)が、それでも20分も経つと足を組んでいるのが段々と苦痛になり、その内に腰や肩までがおかしくなって身体中がワナワナと震えだし、とても「調息」(呼吸を整える)や「瞑想」どころでなくなり、「早く時間がきてくれ!」と祈るばかりの状態になります。2回目の座禅のときは「警策」(肩をたたく板)を持って回られ、私も2~3度たたかれたことがあります。別に痛くはないのでどうということはないのですが、やはりたたかれたくはないので2回目の座禅のときはかなり緊張します。そして目を盗んでは必死に身体の立て直しを図ることになります。いま座禅会に来ているのは大体6~7人で、年齢は私より5~10歳若返りました。もちろん狭い地区なので全員よく知っていますが、いまは座禅の後はお茶を飲んで散会し、茶話会はなく、座禅会も月に2回のためお互いの会話はほとんどなく、なんとなく淡白な感じのものになっています。私にとってはどちらかと云えば苦痛の場になってしまったのですが、熱心に通っておられる他の人は、何を求めて通っておられるのか不思議に思うことがあり、一度聞いてみたいと思っています。というも前住職は「座禅を組むと頭がスッキリして思考がまとまりやすい」とよく云っておられましたが、私自身はあまりそうした実感を持ったことがなく、むしろ茶話会があった時はその談笑から学ぶことが多かったように思うからです。座禅を組むときはいつも、「悟る」とは一体どういうことだろうと考えたりします。むかし巨人軍の川上選手が現役時代、「ピッチャーの投げたボールが止まって見えた」と云っていた話しや、イチロー選手が語る言葉を聞くと、一芸に突出した人が到達する「ある境地」を感じます。そしてそれは悟りに通じる境地なのかと考えたりします。一方で子供のころに読んだ「象とメクラ」の話しを思い浮かべます。鼻に触ったメクラは「象は筒のようなものだ」と感じ、耳に触ったメクラは「ウチワのようなものだ」と感じ、しっぽに触ったメクラは「ひものようなものだ」と感じたという話しです。つまり同じ事象も視点を変えると全く違って見えることを諭した話しで、この話しからすると人生体験の少ない者がいたずらに座禅を組んで瞑想しても、何も見えてこないのではといぶかしく思ったりします。だから禅の修行では師からいろんな難問を問われ、それに即答できるか「禅問答」という試練があるのだろうと思います。しかし同じ世界の人間同士が禅問答をしていても視点が限られ、なかなか悟りの境地に達しえないのではと考えたりもします。かつて茶話会があったころオッサンに、「本来人間を救うべき宗教が戦争を引き起こしたり、同じ宗教がいくつもの宗派に分かれていがみ合うのはおかしいのでは?」と聞いたことがあります。オッサンはただ笑って頭をかいておられましたが、所詮、宗教と云っても人間が作ったもの、悟りのレベルからは程遠いものなのかも知れません。だから座禅も「有酸素運動」の一つぐらいに考えておいた方がよいのかも知れません。
ところで俳人の正岡子規は、悟りとは「死ねと云われたらいつでも死ねる覚悟のできた境地」と最初考えたそうです。しかしその後「どんな境遇に置かれても生きようとする気持ちが備わった境地」と考え直したと聞いたことがあります。生死をさまよって生きた子規らしい考え方の変化ですが、後の生命を大切にしようとする考えには共鳴できるものを感じます。ちなみに私自身は悟りの境地を「カエルにしょんべん」と思っています。しょんべんをひっかけられても涼しい顔のカエルの心境です。とても到達できませんが。
2014年3月8日土曜日
2014年2月26日水曜日
永遠のゼロ
私が「ゼロ戦」という戦闘機を始めて見たのは、いまから40年ほど前に訪れたアメリカのスミソニアン博物館に於いてでした。私は太平洋戦争勃発の年に生まれたのですが、戦争の体験といっても、B-29という爆撃機が岐阜市を襲った時に、一度母親に連れられて防空壕に逃れたのをかすかに覚えている程度で、ほとんど記憶がありません。だからゼロ戦を見ても「これがゼロ戦か、なぜ展示されているのだろう?」くらいの考えしかありませんでした。しかしその後「零戦燃ゆ」(柳田邦男、文春文庫)という小説を読み、ゼロ戦が日中戦争から太平洋戦争にかけ、まさに向かうところ敵なしの世界最高の戦闘機で、だからアメリカはその性能解明に血眼となり、アリューシャン列島近くに不時着したゼロ戦をほぼ無傷状態で回収するのに成功し、それを徹底的に調査したという話しを知り、なぜ展示されていたかの理由が分かると同時に、それがそのゼロ戦だったかも知れないと後で残念に思った次第です。小説によるとその後アメリカは戦闘員の身を守る防御設備を強化したり、被弾に強い材質の戦闘機づくりに力を入れ、その分重くなった機体は超高馬力のエンジンを開発して補い、重装備のグラマンを作ったと云います。これに対しゼロ戦は世界最速ながら小回りが利く、まさに身軽さが身上であったため被弾には弱く、戦闘員の身を守る防御設備も不十分だったのですが、しかしその圧倒的強さに慢心して後発機の開発が遅れ、しかも無線技術が劣り、またレーダーの開発に遅れを取り、それに物量差が加わってやがてゼロ戦は段々と追い詰められ、しかも技能的に極めて優秀であった数多くの戦闘員を失い、その補充が利かないなか「カミカゼ特攻」に突き進んでいったということです。
今回なぜゼロ戦の話しを持ち出したかというと、子供が置いていった本のなかに「永遠のゼロ」(百田尚樹、講談社)という小説があり、それを読んでゼロ戦戦闘員たちの過酷な生きざまを知ったからです。ゼロ戦の性能もさることながら、その戦闘員たちの技量は当時の世界最高レベルにあり、だから当初は無敵を誇ることができたわけです。しかし段々と戦況が不利になってくると、ニューギニア近くのニューブリテン島にあったラバウル基地から1,200キロほど離れたガダルカナル島まで、毎日のように攻撃に出かけたと云います。青森から博多当りまで攻撃に出かけるようなもので、これもゼロ戦の航続距離が3,000キロと、当時の世界の戦闘機の数百キロに比べ桁外れであったからできたことで、レーダーのない時代に目印のない洋上を飛んで行って戦闘し、そしてまたラバウルまで帰ってくるのですから、いかに戦闘員たちにとって過酷な作戦だったかが分かります。そしてやがて「カミカゼ特攻」に志願させられるのですが、重い爆弾を搭載するとスピードがぐんと落ち身動きが取れず、他のゼロ戦に守られての出撃となるのですが、アメリカはそれをレーダーで察知し、何十倍ものグラマンを優位な位置に待機させて待ち構えているのですから、ほとんどの特攻が「無駄死」になったと云います。それでも上層部は出撃をやめず、特にこの「カミカゼ特攻」では学徒動員させられた優秀な人材が数多く失われたと云います。戦闘員の養成には非常に多くの知識・技能を教え込む必要があり、短期間に養成するには優秀な学生をつぎ込まざるを得なかったのです。
永遠のゼロを読んで、大勢の人間の運命を左右する政治家や、軍の指導者たちの責任の取り方について深く考えさせられました。そういう人たちには大言壮語を吐く輩が多く、部下には「国家、天皇陛下のためだ、俺も後から行く」と勇ましいことを云って厳しい命令を下しておきながら、自分たちのこととなると「不可解な撤退」をして、戦局を取り返しのつかないものにしておきながら、責任があいまいなままの指揮官が多いと云います。また、戦後、「カミカゼ特攻」で亡くなられた方々の家族、生きて帰ってきた特攻隊員たちが、「戦争犯罪人」というレッテルを張られ厳しい目を向けられたとき、果たして政治家たちが身を挺して彼らを守ったかということです。いま安倍首相の靖国神社への参拝が大きな問題になっています。「国家のために生命をささげた人たちに、尊崇の念をもって参拝する」という一国の首相の立場は分かります。しかし問題はそこで安らかに眠っている人たちの気持ちです。彼らが「靖国で会おう」といって散っていったことは事実でしょう。しかしそれは自分たちが再会するための居場所であって、選挙目当ての政治家たちに参拝してもらうための場所ではなく、彼らにとってはハタ迷惑かも知れません。「カミカゼ特攻」に選ばれた人たちの遺書、手紙、歌には勇ましいものが多いそうです。しかしそれは上官の検閲があったり、家族に迷惑がかからないようにといった配慮があってのもので、その行間にはむしろ「生きたい」という切実な気持ちがにじんでいるそうです。そうした彼らの気持ちを本当に真剣に受け止めるなら、政治家たちは参拝と同時に「我々はもっと真面目に生きるべき」ことを若者、国民に訴え、そうした社会の実現にそれこそ生命をかけるべきではないでしょうか。いまの世の中、イジメによる自殺、ストーカーによる殺人、「だれでもよかった」という通りすがりの殺傷、あまりにも生命を粗末にした事件が多すぎます。また、美食に走ってダイエットしたり、ジャンクフードで健康を損ね、それを薬やサプリメントで簡単に解消しようとする風潮、これも生命を大切にしているとは云えません。もう少し授かった生命の重みを真剣に考えるべきではないでしょうか。
今回なぜゼロ戦の話しを持ち出したかというと、子供が置いていった本のなかに「永遠のゼロ」(百田尚樹、講談社)という小説があり、それを読んでゼロ戦戦闘員たちの過酷な生きざまを知ったからです。ゼロ戦の性能もさることながら、その戦闘員たちの技量は当時の世界最高レベルにあり、だから当初は無敵を誇ることができたわけです。しかし段々と戦況が不利になってくると、ニューギニア近くのニューブリテン島にあったラバウル基地から1,200キロほど離れたガダルカナル島まで、毎日のように攻撃に出かけたと云います。青森から博多当りまで攻撃に出かけるようなもので、これもゼロ戦の航続距離が3,000キロと、当時の世界の戦闘機の数百キロに比べ桁外れであったからできたことで、レーダーのない時代に目印のない洋上を飛んで行って戦闘し、そしてまたラバウルまで帰ってくるのですから、いかに戦闘員たちにとって過酷な作戦だったかが分かります。そしてやがて「カミカゼ特攻」に志願させられるのですが、重い爆弾を搭載するとスピードがぐんと落ち身動きが取れず、他のゼロ戦に守られての出撃となるのですが、アメリカはそれをレーダーで察知し、何十倍ものグラマンを優位な位置に待機させて待ち構えているのですから、ほとんどの特攻が「無駄死」になったと云います。それでも上層部は出撃をやめず、特にこの「カミカゼ特攻」では学徒動員させられた優秀な人材が数多く失われたと云います。戦闘員の養成には非常に多くの知識・技能を教え込む必要があり、短期間に養成するには優秀な学生をつぎ込まざるを得なかったのです。
永遠のゼロを読んで、大勢の人間の運命を左右する政治家や、軍の指導者たちの責任の取り方について深く考えさせられました。そういう人たちには大言壮語を吐く輩が多く、部下には「国家、天皇陛下のためだ、俺も後から行く」と勇ましいことを云って厳しい命令を下しておきながら、自分たちのこととなると「不可解な撤退」をして、戦局を取り返しのつかないものにしておきながら、責任があいまいなままの指揮官が多いと云います。また、戦後、「カミカゼ特攻」で亡くなられた方々の家族、生きて帰ってきた特攻隊員たちが、「戦争犯罪人」というレッテルを張られ厳しい目を向けられたとき、果たして政治家たちが身を挺して彼らを守ったかということです。いま安倍首相の靖国神社への参拝が大きな問題になっています。「国家のために生命をささげた人たちに、尊崇の念をもって参拝する」という一国の首相の立場は分かります。しかし問題はそこで安らかに眠っている人たちの気持ちです。彼らが「靖国で会おう」といって散っていったことは事実でしょう。しかしそれは自分たちが再会するための居場所であって、選挙目当ての政治家たちに参拝してもらうための場所ではなく、彼らにとってはハタ迷惑かも知れません。「カミカゼ特攻」に選ばれた人たちの遺書、手紙、歌には勇ましいものが多いそうです。しかしそれは上官の検閲があったり、家族に迷惑がかからないようにといった配慮があってのもので、その行間にはむしろ「生きたい」という切実な気持ちがにじんでいるそうです。そうした彼らの気持ちを本当に真剣に受け止めるなら、政治家たちは参拝と同時に「我々はもっと真面目に生きるべき」ことを若者、国民に訴え、そうした社会の実現にそれこそ生命をかけるべきではないでしょうか。いまの世の中、イジメによる自殺、ストーカーによる殺人、「だれでもよかった」という通りすがりの殺傷、あまりにも生命を粗末にした事件が多すぎます。また、美食に走ってダイエットしたり、ジャンクフードで健康を損ね、それを薬やサプリメントで簡単に解消しようとする風潮、これも生命を大切にしているとは云えません。もう少し授かった生命の重みを真剣に考えるべきではないでしょうか。
2014年2月15日土曜日
スキー
先週、2年ぶりにスキーに行ってきました。「エコの環」の野菜作りをしている人の中にスキーの好きな方がおり、「スキーに行くときは誘ってください」と以前声をかけておいたところ、誘いの声がかかり、車で1時間半ほど走ったところにある神鍋高原の「万場スキー場」まで行ってきました。私の住む地域は、神鍋以外にも鉢伏とか氷ノ山など大きなスキー場に恵まれ、冬になると身体がムズムズして血が騒ぐため、ずっとスキーを楽しんできました。さすがに60を過ぎてからは回数は減りましたが、それでもいまも年に1~2回はどこかのスキー場に出かけ、万場は3~4年ぶりでした。しかし平日(金曜日)とはいえゲレンデはガラガラで、正直びっくりしました。万場というのは神鍋の中でも非常に人気の高いゲレンデで、それこそ我々が若かりし頃(1960年代)は、朝6時前の汽車に乗り、豊岡で乗り換えて江原駅まで行き、そこでバスに乗り換えて40~50分揺られた後、そこからまたスキーを担いで30~40分かけて行ったものです。だから滑り始めるのは大体10時を回っていました。しかし当時は冬季オリンピック三冠王のトニーザイラーが主演した、「白銀は招くよ」という映画がそのテーマ曲とともに日本で大ヒットし、高度成長期とも重なって日本は超スキーブームにあり、それこそスキー場はどこもイモの子を洗う賑わいで、だから道中の苦労やリフトの長蛇の列など全く気にならず、毎日曜日、休日のほかに年休も取って、せっせとスキーに出かけたものです。1970年代になるとどこのスキー場にも駐車場が完備され、今度は駐車場探しや大渋滞に悩まされながら、万場へもよく出かけました。そして1980年代は今度は子供たちを連れ、泊りがけで出かけるようになりましたが、どこもゲレンデは拡張の一方で、リフトも2人乗りから4人掛けのものまで登場し、ゲレンデの賑わいは一向に衰えることはありませんでした。1990年代になるとさすがに仕事で足が遠のくようになりましたが、それでもたまに出かけると、いつの間にかスノーボードがゲレンデで幅を利かせるようになっており、スキーが段々とゲレンデの片隅に追いやられ、スキー人口の減少を感じてはいましたが、それにしても今回の万場の状況は、昔の大混雑を知っているだけにいささかショックでした。
今回のショックは、途中にある「名色スキー場」が営業停止にあることを知ったのがまず始まりでした。名色スキー場もかなり大きな人気スポットの一つで、子供たちを連れて何度も行ったことがあったからです。ふもとのヒッソリ閑とした雪景色は信じられない光景でした。次に驚いたのは万場の駐車場です。平日は無料なのだそうですが(これも信じられないことです)、ガラガラで20~30台しか止まっていないのです。リフト券も半日券を買う予定だったのですが、金曜日は「シニアDay」ということで、私たち高齢者は1日券をわずか2,200円で買うことができました。そしてゲレンデに出ると人影がまったく無く、たまに2~3人が滑っているのを見かける程度なのです。確かにここ数年、他のスキー場でもゲレンデがかなり空いているのを見てはいましたが、まさか万場がここまで閑散としているとは想像もしていませんでした。リフトも止まっているのがあったり、かつては10人近くが働いていたと思うリフトにも、いまは3人しか張り付いていないのです。また、ゲレンデのアチコチにあった食堂も閉じられたところが多く、昼食時に入ってもやはりガラガラで、見かけるのは高齢者ばかりで若者がいないのです。特に驚いたのは一番下のゲレンデ直下にあった宿泊設備を持った食堂で、当時は目の前のゲレンデにナイター設備があり、そこに泊まることは一種のステータス気分が味わえ、何度か泊まったことがあるのですが、そこが閉鎖になっていたのです。
スキーの方は人影がないことをいいことに2~3本立て続けに滑り降りたところ、太ももがパンパンに張ってしまいコントロールが利かなくなり、体力には結構自信のある私も今回はへとへとに疲れてしまいました。一緒に行った人の気遣いから、結局昼食をはさんで3時間ほどで切り上げましたが、スキーでこんなに疲れたのは始めてであり、帰りに途中の温泉に寄り、ゆっくり疲れを癒して帰ってきました。費用的には温泉代も含め、スキー道具を借りた私が6,500円、連れの人は3,500円と昔に比べると半額以下で、「また行きましょう」ということになりました。
今回の旅行でつくづく感じたのは、スキー場の有様がまさに今の日本の姿そのものになっているということでした。昔の賑わいがすっかり消えてシャッター通りが増え、高齢者だけが無料駐車、シニア券の恩恵を受けて平日にゆうゆうとスキー、温泉を楽しみ、そこには若者の姿が全く見当たらないのです。確かに私たち高齢者にとって有難いことではあるのですが、これを支えてくれている若者に何か申し訳ない気持ちが拭いきれず、やはりガラガラの温泉に2人で浸かりながら、私たち高齢者で回す「エコの環」でお返ししようと話し合ってきました。
今回のショックは、途中にある「名色スキー場」が営業停止にあることを知ったのがまず始まりでした。名色スキー場もかなり大きな人気スポットの一つで、子供たちを連れて何度も行ったことがあったからです。ふもとのヒッソリ閑とした雪景色は信じられない光景でした。次に驚いたのは万場の駐車場です。平日は無料なのだそうですが(これも信じられないことです)、ガラガラで20~30台しか止まっていないのです。リフト券も半日券を買う予定だったのですが、金曜日は「シニアDay」ということで、私たち高齢者は1日券をわずか2,200円で買うことができました。そしてゲレンデに出ると人影がまったく無く、たまに2~3人が滑っているのを見かける程度なのです。確かにここ数年、他のスキー場でもゲレンデがかなり空いているのを見てはいましたが、まさか万場がここまで閑散としているとは想像もしていませんでした。リフトも止まっているのがあったり、かつては10人近くが働いていたと思うリフトにも、いまは3人しか張り付いていないのです。また、ゲレンデのアチコチにあった食堂も閉じられたところが多く、昼食時に入ってもやはりガラガラで、見かけるのは高齢者ばかりで若者がいないのです。特に驚いたのは一番下のゲレンデ直下にあった宿泊設備を持った食堂で、当時は目の前のゲレンデにナイター設備があり、そこに泊まることは一種のステータス気分が味わえ、何度か泊まったことがあるのですが、そこが閉鎖になっていたのです。
スキーの方は人影がないことをいいことに2~3本立て続けに滑り降りたところ、太ももがパンパンに張ってしまいコントロールが利かなくなり、体力には結構自信のある私も今回はへとへとに疲れてしまいました。一緒に行った人の気遣いから、結局昼食をはさんで3時間ほどで切り上げましたが、スキーでこんなに疲れたのは始めてであり、帰りに途中の温泉に寄り、ゆっくり疲れを癒して帰ってきました。費用的には温泉代も含め、スキー道具を借りた私が6,500円、連れの人は3,500円と昔に比べると半額以下で、「また行きましょう」ということになりました。
今回の旅行でつくづく感じたのは、スキー場の有様がまさに今の日本の姿そのものになっているということでした。昔の賑わいがすっかり消えてシャッター通りが増え、高齢者だけが無料駐車、シニア券の恩恵を受けて平日にゆうゆうとスキー、温泉を楽しみ、そこには若者の姿が全く見当たらないのです。確かに私たち高齢者にとって有難いことではあるのですが、これを支えてくれている若者に何か申し訳ない気持ちが拭いきれず、やはりガラガラの温泉に2人で浸かりながら、私たち高齢者で回す「エコの環」でお返ししようと話し合ってきました。
2014年2月5日水曜日
リケジョ
日本のリケジョ(理系の女性)が世界を驚かすスゴイ発見をしてくれました。山中教授のIPS細胞とは全く違う手法で、STAP細胞と呼ばれる万能細胞を「より安く、より早く、より安全」に作れるというから驚きです。山中教授に続く快挙に何も分からないわれわれもすっかり興奮し、私の末娘もリケジョであることから、つい心で万歳を叫んでいました(何の関係もありませんが)。山中教授がIPS細胞の開発に成功されたのは確か40歳を過ぎたばかりのころで、ずい分若いなーと思っていましたが、今度の小保方さんはまだ弱冠30歳とか。自分が30歳だったころのことを思うと、全く使命感が異なり恥ずかしくなります。それにしてもカッポウギを着て実験したり、実験室の壁をピンク色に塗り替えたり、実験器具にお気に入りの漫画キャラクターを貼ったり、スッポンを飼ったり、ずい分奔放な気がしますが、それを許している研究所や上司の方々の度量にも感心します。もっとも小保方さんは最初、STAP細胞はこれまでの万能細胞と異なり、眠っていた力を呼び覚まして自ら万能化することから、それを王子様にキスされて目覚めるお姫様になぞらえ、「P(プリンセス)細胞」と名付けようとしたようですが、さすがにそれはボツにされたとか。学校時代の友達や、先生、大学時代の恩師たちによると、とにかく頑張り屋だったということですが、それにもまして発想力がずい分他の人とは違っていたようです。テレビでどなたかが「五感が違う」と云っておられましたが、理屈の積み重ねである理系分野においても、斬新な発想にはやはり「五感」とか「感性」が非常に重要なことが分かります。その点は女性の方が理屈やメンツを重んじる男性より優れており、また、忍耐力でもずっと優れることから、今後のリケジョの活躍が大いに期待されます。
ところで今回の発見にはIPS細胞と同様、再生医療、新薬の開発などに多くの期待がかかります。それはそれで大変に喜ばしいことですが、ただ細胞を操作するということは「神の領域」に足を踏み入れることでもあります。今回の大発見に世界はただ驚いて見ているだけでなく、間違いなく猛烈な開発競争が始まるはずです。小保方さんの論文が英科学誌ネイチャーに発表された日に米メディアは、小保方さんを指導したハーバード大の教授たちの研究チームが、「すでにSTAP細胞を使って脊髄損傷をしたサルの治療を始めている」ことを伝えています。こうした競争の激化が倫理問題を置き去りにして、神の領域を冒すことにつながっていかないか非常に心配します。私も理系の人間の端くれとして思うのは、どんなに優れた薬にも副作用があるように、どんなに優れた技術にも必ず負の面があるということです。それが事前に予測できて対策が打てればよいのですが、多くはそれがごく微量の不純物の中に隠れていたり、想定外のことが起きないかぎり現れなかったり、開発段階では見逃してしまうことが多いのです。例えば福島第一原発の事故がそうです。事故が起きてはじめて「ああしておけばよかった」、「こうしておけばよかった」ということが云えるのであって、なかなか事前にはそれが分からず、あるいはそれを問題視せずに見すごし、事故が起きてはじめて負の面の重大さに気付くのです。しかし人間の技術力は想定外のことには全く無力で、泥縄式のことしかできず、解決するには天文学的なお金と多くの人の犠牲を必要とします。このように生産活動によって引き起こされる環境破壊や人的被害を「外部不経済」と呼ぶそうですが、本来はこれを内部化して生産できるようにしないかぎり経済は成り立たず、社会に甚大な不利益、不幸をもたらすだけになってしまいます。神の領域に入り込む医療活動が、今後こうしたとんでもない外部不経済をもたらす結果にならないことを願っています。
ところで今回の発見にはIPS細胞と同様、再生医療、新薬の開発などに多くの期待がかかります。それはそれで大変に喜ばしいことですが、ただ細胞を操作するということは「神の領域」に足を踏み入れることでもあります。今回の大発見に世界はただ驚いて見ているだけでなく、間違いなく猛烈な開発競争が始まるはずです。小保方さんの論文が英科学誌ネイチャーに発表された日に米メディアは、小保方さんを指導したハーバード大の教授たちの研究チームが、「すでにSTAP細胞を使って脊髄損傷をしたサルの治療を始めている」ことを伝えています。こうした競争の激化が倫理問題を置き去りにして、神の領域を冒すことにつながっていかないか非常に心配します。私も理系の人間の端くれとして思うのは、どんなに優れた薬にも副作用があるように、どんなに優れた技術にも必ず負の面があるということです。それが事前に予測できて対策が打てればよいのですが、多くはそれがごく微量の不純物の中に隠れていたり、想定外のことが起きないかぎり現れなかったり、開発段階では見逃してしまうことが多いのです。例えば福島第一原発の事故がそうです。事故が起きてはじめて「ああしておけばよかった」、「こうしておけばよかった」ということが云えるのであって、なかなか事前にはそれが分からず、あるいはそれを問題視せずに見すごし、事故が起きてはじめて負の面の重大さに気付くのです。しかし人間の技術力は想定外のことには全く無力で、泥縄式のことしかできず、解決するには天文学的なお金と多くの人の犠牲を必要とします。このように生産活動によって引き起こされる環境破壊や人的被害を「外部不経済」と呼ぶそうですが、本来はこれを内部化して生産できるようにしないかぎり経済は成り立たず、社会に甚大な不利益、不幸をもたらすだけになってしまいます。神の領域に入り込む医療活動が、今後こうしたとんでもない外部不経済をもたらす結果にならないことを願っています。
2014年1月28日火曜日
小野田さんが逝く
小野田さんが亡くなられました。91歳とのことですが、長いジャングル生活を生き抜かれた方にしては少し早過ぎる気がします。1974年でしたか、彼がフィリピンのルバング島で発見されたとき終戦を信じず、「解除命令がない限り、戦闘はやめない」と語り、かつての上官がわざわざ現地に赴き、任務解除命令を出してから帰国するという、当時の我々には信じがたい強固な精神力に圧倒され、「西洋は契約の社会、日本は忠義の社会」とは云うものの、その軍人としての忠誠心に感激したことを覚えています。しかし帰国後わずか半年後にはブラジルへの移住を決断され、「なぜ日本でゆっくりされないのか」と訝ったことを覚えています。しかし当時の日本は、小野田さんには余りにも物質的に恵まれ過ぎ、自由勝手で価値観が全く違っており、馴染めなかったのかも知れません。また、マスコミから「軍人精神の権化」とか「軍国主義の亡霊」と、持ち上げたりたたいたり両極端の扱いを受け、嫌気がさしたのかも知れません。
ところで私はいま、たまたま「永遠のゼロ」(百田尚樹、講談社)という小説を毎晩寝る前に読んでいて、「ゼロ戦」搭乗員たちの常に死と向き合った過酷な生きざまに、深い感銘を受けているのですが、ジャングルでの全く異なる戦争体験とはいえ、生死を賭けて生きてこられた当時の小野田さんの心境が、いまはとても分かる気がします。小説に無事に帰国できたある兵士の話しが出てきます。帰国後結婚し、子供が小学生になったとき運動会に出かけ、子供たちに声援を送る父親たちとの楽しい雰囲気のさなか、突然十年前の戦争中のことが思い出され、するとあの戦争で亡くなった大勢の男たちの無念さが胸にこみ上げ、涙が止まらなくなったというエピソードです。平和ボケですっかり忘れられた何でもない日常生活の大切さ、元気に生きておられることの有難さがシミジミと伝わってきます。小説ではまた、日本の劣勢が色濃くなってきたころ、搭乗員が全員集められ、上官から「特攻攻撃をする。志願する者は前に出ろ」と神風(最初は「しんぷう」と読んだらしい)特別攻撃の始まったときの話しが出てきます。いかに毎日生命を懸けて戦ってはいても、そこにはまだ「生きる一縷の望み」があります。しかし特攻となると生きる望みは全く絶たれ、最初は誰も動かなかったそうです。しかし「行くのか、行かないのか!」と声を張り上げられ、つられるように全員が前に出たと云います。このようにして選ばれ、最初に全機体当たりに成功して大戦果を挙げた敷島隊隊長の関大尉は、当時「軍神」として日本中にその名を轟かせ、一人息子を失った母は「軍神の母」としてもてはやされたそうです。しかし戦後は一転して戦争犯罪人の母として村八分の扱いを受け、息子の墓を建てることさえ許されず、また、無事に帰国した「ゼロ戦搭乗員」たちへの扱いも、似たようなものだったと云います。まことに身勝手なものです。戦争はほんの一握りの人間たちの無責任な判断で実行され、残りの大多数の人間の生命、運命がそれに翻弄されるのです。
小野田さんはその後、日本で起きた「金属バット事件」をブラジルで知り、子供たちの力になりたいと日本に戻り、小野田自然塾を開いて約2万人もの子供たちに、キャンプを通してたくましく生きることを教えられました。「人間は強くなければ、人にやさしくできない」と、かなり危険なキャンプ体験もさせたようですが、一方で子供たちへの教育を通し、小野田さん自身もかなり柔和な顔つきになっていかれたと云います。戦争はもちろん過酷な運命を人に強要しますが、しかし平和であればあったでまた厳しい現実があり、それを子供たちが運命として背負い、それなりに苦しんで生きていることを理解されたのかも知れません。いずれにしても小野田さんの言葉、「死を意識しないことで、日本人は生きることをおろそかにしてしまっていないだろうか」は、いまの我々にとって非常に重く、「ゼロ戦搭乗員」たちの叫び声も重なって聞こえてくる気がします。
ご冥福をお祈りします。
ところで私はいま、たまたま「永遠のゼロ」(百田尚樹、講談社)という小説を毎晩寝る前に読んでいて、「ゼロ戦」搭乗員たちの常に死と向き合った過酷な生きざまに、深い感銘を受けているのですが、ジャングルでの全く異なる戦争体験とはいえ、生死を賭けて生きてこられた当時の小野田さんの心境が、いまはとても分かる気がします。小説に無事に帰国できたある兵士の話しが出てきます。帰国後結婚し、子供が小学生になったとき運動会に出かけ、子供たちに声援を送る父親たちとの楽しい雰囲気のさなか、突然十年前の戦争中のことが思い出され、するとあの戦争で亡くなった大勢の男たちの無念さが胸にこみ上げ、涙が止まらなくなったというエピソードです。平和ボケですっかり忘れられた何でもない日常生活の大切さ、元気に生きておられることの有難さがシミジミと伝わってきます。小説ではまた、日本の劣勢が色濃くなってきたころ、搭乗員が全員集められ、上官から「特攻攻撃をする。志願する者は前に出ろ」と神風(最初は「しんぷう」と読んだらしい)特別攻撃の始まったときの話しが出てきます。いかに毎日生命を懸けて戦ってはいても、そこにはまだ「生きる一縷の望み」があります。しかし特攻となると生きる望みは全く絶たれ、最初は誰も動かなかったそうです。しかし「行くのか、行かないのか!」と声を張り上げられ、つられるように全員が前に出たと云います。このようにして選ばれ、最初に全機体当たりに成功して大戦果を挙げた敷島隊隊長の関大尉は、当時「軍神」として日本中にその名を轟かせ、一人息子を失った母は「軍神の母」としてもてはやされたそうです。しかし戦後は一転して戦争犯罪人の母として村八分の扱いを受け、息子の墓を建てることさえ許されず、また、無事に帰国した「ゼロ戦搭乗員」たちへの扱いも、似たようなものだったと云います。まことに身勝手なものです。戦争はほんの一握りの人間たちの無責任な判断で実行され、残りの大多数の人間の生命、運命がそれに翻弄されるのです。
小野田さんはその後、日本で起きた「金属バット事件」をブラジルで知り、子供たちの力になりたいと日本に戻り、小野田自然塾を開いて約2万人もの子供たちに、キャンプを通してたくましく生きることを教えられました。「人間は強くなければ、人にやさしくできない」と、かなり危険なキャンプ体験もさせたようですが、一方で子供たちへの教育を通し、小野田さん自身もかなり柔和な顔つきになっていかれたと云います。戦争はもちろん過酷な運命を人に強要しますが、しかし平和であればあったでまた厳しい現実があり、それを子供たちが運命として背負い、それなりに苦しんで生きていることを理解されたのかも知れません。いずれにしても小野田さんの言葉、「死を意識しないことで、日本人は生きることをおろそかにしてしまっていないだろうか」は、いまの我々にとって非常に重く、「ゼロ戦搭乗員」たちの叫び声も重なって聞こえてくる気がします。
ご冥福をお祈りします。
2014年1月19日日曜日
毒物混入事件
食品の偽装問題が落ち着いたと思ったら、「アクリフーズ」という会社の冷凍食品から、農薬の「マラチオン」が検出されるという大問題が発生しました。このニュースを知ったとき真っ先に思い浮かんだのが、6年ほど前に起きた中国の毒ギョーザ事件のことです。当時、日中双方が協力して調査が進められましたが、中国側から「中国で入った可能性は低い」として日本側を疑う見解が示されたときは、「そんなこと100%ありえないヨ」と笑っておられたことが、今回の事件で「エツ! あり得るの!」という、信じがたい現実に直面したからです。それにしても今回も会社側の対応には、食品会社としての責任を一体どう考えているのか、疑問を感じざるを得ませんでした。消費者の苦情があってから公表までに1ヶ月半もかかったことについて、「まさか農薬が入っているとは想像できず、究明に時間がかかった」と釈明されても、子供や老人も食べる食品だけに、その間にもし深刻な事態に発展していたらどうするつもりだったのかと云いたくなります。また、最初に「子供が一度に60個のコロッケを食べないと、毒性は発症しない」と云っておきながら、厚労省の指摘を受け、「8分の1個食べると吐き気など健康被害を起こす可能性がある」と訂正するなど、農薬の知識があろうとなかろうと、消費者の健康への影響をどう考えているのかと不信感を覚えます。多分前者は致死量の基準値を、後者は急性中毒の基準値を判断材料にしていると思いますが、「死ななきゃいいのか」と云いたくなります。慢性中毒になることも考えられ、これなどはほとんど基準値が分かっておらず、そうしたことも考えると今回の事件はとても怖い話しと云えます。
ところでいまや冷凍食品などインスタント食品は、私たちの日常生活に欠かせないモノになっています。私が最初にインスタント食品に接したのは、確か「キンケイカレー」とかいう粉末即席カレーで、登山に出かけたときに食べたのですが、お湯をかけると赤い粒つぶが大きく膨張してニンジンの姿に変わるのにビックリさせられ、その便利さに驚いたものです。多分真空乾燥されたもので、食品添加物など入っていなかったと思います。その後に開発された冷凍食品も、「急速冷凍することで食品の鮮度を保ち、長期保存を可能にしたもの」で、当初は添加物などの必要がない便利な加工食品だったと思います。しかしこの冷凍食品もいまや激しいコストダウン競争に巻き込まれ、安い原料にシフトするなかで、ハンバーグやメンチカツなどの肉質を落とし、それと分からないように食品添加物で食味や色、食感を与える技術が進み、そもそもの発想とはまったく異なる製品になってしまっているようです。また、即食べられるものとして出来合いの食品があります。コンビニのお弁当やおにぎりなどがそうですが、これらは裏側に「保存料不使用」のシールが貼ってあったりします。しかしそれは指定された添加物を使っていないというだけで、その役目をする代わりの添加物(pH調整剤、グリシン、酢酸ナトリウムなど)が大量に使われているそうです。しかもコンビニは車で来るお客が多いため、車中に置き忘れた弁当で食中毒を起こされるのが怖いため、業界独自の安全基準「30°C、48時間」というものがあり、つまり真夏の30°Cのなか、二日間放置しておいても腐らずに食べられるという基準で、こんなものが身体に良いわけがありません。日本はインスタントラーメンの開発で食品添加物の時代に突入したと云われますが、食品は健康に直結するものであり、「安い」、「手軽」、「見栄え」だけで選ぶべきものではなく、サプリメントも含め、最近の食品の傾向に対し、「食育」の大切さを痛感します。
滝野 清;「食品添加物と私」
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警察による立ち入り調査 |
ところでいまや冷凍食品などインスタント食品は、私たちの日常生活に欠かせないモノになっています。私が最初にインスタント食品に接したのは、確か「キンケイカレー」とかいう粉末即席カレーで、登山に出かけたときに食べたのですが、お湯をかけると赤い粒つぶが大きく膨張してニンジンの姿に変わるのにビックリさせられ、その便利さに驚いたものです。多分真空乾燥されたもので、食品添加物など入っていなかったと思います。その後に開発された冷凍食品も、「急速冷凍することで食品の鮮度を保ち、長期保存を可能にしたもの」で、当初は添加物などの必要がない便利な加工食品だったと思います。しかしこの冷凍食品もいまや激しいコストダウン競争に巻き込まれ、安い原料にシフトするなかで、ハンバーグやメンチカツなどの肉質を落とし、それと分からないように食品添加物で食味や色、食感を与える技術が進み、そもそもの発想とはまったく異なる製品になってしまっているようです。また、即食べられるものとして出来合いの食品があります。コンビニのお弁当やおにぎりなどがそうですが、これらは裏側に「保存料不使用」のシールが貼ってあったりします。しかしそれは指定された添加物を使っていないというだけで、その役目をする代わりの添加物(pH調整剤、グリシン、酢酸ナトリウムなど)が大量に使われているそうです。しかもコンビニは車で来るお客が多いため、車中に置き忘れた弁当で食中毒を起こされるのが怖いため、業界独自の安全基準「30°C、48時間」というものがあり、つまり真夏の30°Cのなか、二日間放置しておいても腐らずに食べられるという基準で、こんなものが身体に良いわけがありません。日本はインスタントラーメンの開発で食品添加物の時代に突入したと云われますが、食品は健康に直結するものであり、「安い」、「手軽」、「見栄え」だけで選ぶべきものではなく、サプリメントも含め、最近の食品の傾向に対し、「食育」の大切さを痛感します。
滝野 清;「食品添加物と私」
2014年1月8日水曜日
初詣で
明けましておめでとうございます。みな様それぞれに良いお年をお迎えになったことと、お慶び申し上げます。本年もよろしくお願いします。
私が住む宮津市も今年は元日、3日と好天に恵まれ、気分的にも良いお正月を迎えることができました。そして3日には帰省した子供やその家族と、宮津市から車で30〜40分走ったところにある「元伊勢神宮」(福知山市大江町)まで、10年ぶりくらいに初詣でに出かけました。実は昨年の11月に両親の法要が岐阜であり、ついでに子供達と「お伊勢さん」まで足を伸ばしたことから、初詣でも「元伊勢に行こう」ということになった次第です。前に元日に出かけたときはひどい渋滞に巻き込まれた経験から、3日に出かけたのですが、車の渋滞はなかったものの、参拝するのに境内には長蛇の列ができていて、結局、参拝に1時間以上もの時間がかかり、外宮(元伊勢外宮豊受大神社)には寄らずに帰ってきました。
今回境内にあった案内板で、なぜここが「元伊勢」と呼ばれるのか知ったのですが、いま伊勢神宮に祀られている「天照大御神」は古くは宮中に祀られていたそうです。しかしこれを畏怖した天皇の命で鎮座地を求めて各地を転々とし、最終的に伊勢に落ち着いたそうですが、それまでの間に訪れた一時遷座地は各地で「元伊勢」として語り継がれ、当社もそうした伝承地の一つで、伊勢神宮より54年も古い由緒ある神社なのだそうです。元伊勢内宮皇太神社はうっ蒼とした森の中にあり、原生林の中の表参道(220段の石段あり)を登ると本殿にたどり着きます。本殿前には「黒木の鳥居」(皮付きの杉の木製)があり、これは外宮の鳥居と合わせ全国に二つしかない珍しいもので、最も古いタイプの鳥居なのだそうです。また、「五十鈴川」と呼ばれる小さな川もあり、きれいな水が流れていました。
ところで「伊勢神宮」では昨年、20年に一度の遷宮式が行われました。実は私は小学校の修学旅行で丁度遷宮式のあった年に「伊勢神宮」に参拝していて、もちろんそれ以降も2〜3度お参りに出かけてはいましたが、昨年は小学校の修学旅行から丁度60年目の節目ということで、感慨深いものがありました。そして修学旅行のときに学んだ「内宮、外宮の鰹木の偶数、奇数の違い」や「千木の形の違い」を子供たちに得意げに語っているのでした。それにしても参拝者の数がものすごく、駐車場を探すのも食事をするのも大変でしたが、「おかげ横丁」という商店街は江戸時代の面影を彷彿とさせ、昔からみなこうして「お伊勢参り」を楽しんだのだろうナーと、我々も買い物を楽しんできました。
原生林の中の参道 |
内宮皇太神社 |
黒木の鳥居 |
ところで「伊勢神宮」では昨年、20年に一度の遷宮式が行われました。実は私は小学校の修学旅行で丁度遷宮式のあった年に「伊勢神宮」に参拝していて、もちろんそれ以降も2〜3度お参りに出かけてはいましたが、昨年は小学校の修学旅行から丁度60年目の節目ということで、感慨深いものがありました。そして修学旅行のときに学んだ「内宮、外宮の鰹木の偶数、奇数の違い」や「千木の形の違い」を子供たちに得意げに語っているのでした。それにしても参拝者の数がものすごく、駐車場を探すのも食事をするのも大変でしたが、「おかげ横丁」という商店街は江戸時代の面影を彷彿とさせ、昔からみなこうして「お伊勢参り」を楽しんだのだろうナーと、我々も買い物を楽しんできました。
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