2013年3月30日土曜日

有機栽培

  日本の農業者の60%は65歳以上の高齢者で、その8割は農業を楽しんでいる人達(疑似農家)であると云います。私が住む田舎(宮津市郊外)でも、実際に農作業を行っている人のほとんどは元サラリーマンで、自家消費用のコメ・野菜を作っておられます。そして野菜づくりでは健康志向を目指してか、多くの人が化学肥料・農薬を使わない有機栽培にこだわっておられます。その人達に肥料は何を使っているか聞くと、ほとんどの人は鶏糞や牛糞を使っていると云います。しかし数十年も昔ならともかく、いまは牛も鶏も生産効率を上げるために、成長ホルモン、女性ホルモン、抗生物質などが入った配合飼料で育てられています。栄養価の高いものを食べすぎると我々は脂肪肝になりますが、それは家畜とて同じで体調をこわします。また、狭いケージの中で育てられることによるストレスで発病します。それを防ぐには抗生物質や抗菌剤が必要ということで、餌に添加される抗生物質・抗菌剤は30~40種類にも及ぶと云います。当然こうした家畜は抗生物質をたっぷり含んだ排泄物をし、こうした排泄物から作られる堆肥は抗生物質耐性菌にあふれたものになります。したがってこれを肥料に使う農業者は常に耐性菌に曝され、野菜には耐性菌が付着します。もしこうしたことが原因で病原性耐性菌に感染したら、どんな抗生物質も効かず、有機野菜だからといって安心できないことになります。いま全国では毎年2万人ほどの人が耐性菌の感染で生命を落としていると云います。しかし野菜については何の規制もなく、有機JASマークが付いているから、自然食品店で売られているからといって安全な保障はありません。こうしたことから我々の「エコの環」では、畜ふん堆肥は一切使わないことにしています。

2013年3月21日木曜日

F1種

  数年前、あさがおの種を買って苗を200株ほど育て、それをアチコチの人に配って生ごみ堆肥で育てたことがあります。どこも見事に花が咲き、それがとても嬉しくて翌年を楽しみにタネ取りをしました。そして翌年、同じように苗を育てたのですがどうも育ちが悪い(中にはモヤシのようなひょろ長い苗も)。成長を待ちきれずに移植をしても、すぐに根腐れを起こしたり、大きく伸長しないまま小さな花をつけたり、結局、満足な苗を育てられずおかしいなと感じたことがあります。その後ある本で、いまは花も野菜もほとんどが「F1の種」(交配によって作られた新品種の一代目の意)から作られ、それは二代目以降が生まれることは想定しておらず、一代限りを目的にした種であることを知りました。
  この自然界には異なった種の間では生殖ができない「種の壁」が厳存します。しかしいまのバイオテクノロジーは簡単にこの壁を破り、自然界では決して交じり合わない品種同士から、例えば多収量で成長が早いとか、甘くて柔らかいといった生産者の都合や消費者の嗜好に合わせた、全く新しい品種を作り出すことができるのだそうです。こうしたF1種の技術は1950年代に現れ、「緑の革命」と呼ばれる農業改革を世界各地に引き起こしたものの、農家は毎年種を種子会社から購入せざるを得ず、また、化学肥料、農薬が欠かせないため、いまでは病害虫、土壌汚染、多額の負債、貧富の格差を生む結果を招いているそうです。「ノーベル賞」(2012.12.12.)でも触れましたが、我々人間に許されるのは自然の力、恵みをできるだけ自然のまま利用することであって、自然界に存在しない形(循環しない品種)にまで変形加工することは、許されることではないと思います。子孫が残せない穀物・野菜なんて、まるでキツネやタヌキが化けた美女のようなもので、見た目は野菜の形をしていてもニセモノなのです。
安倍首相の決断でTPPへの交渉参加が表明されました。工業界、農業界が真っ向対決するTPPですが、新聞報道では国民の70%近くは首相の決断を評価しているようです。しかし同時に70%ほどが食の安全性に不安を感じているようです。農業の自由化、グローバル化が農業の工業化を促進し、F1種、遺伝子組換えといった際限のない生命操作技術に、ますます拍車のかかることを予感するからではないかと思います。「食律」という言葉があります。人間を始めあらゆる生き物にはその生きる環境に合った食べ物があり、ライオンにはライオンの、エスキモーにはエスキモーの、熱帯地方の人には熱帯地方の人の食べ物があり、食律に従った食べ物を食べることが天然自然の理に叶い、最も健康的であることを諭した言葉です。「三里四方の食べ物を食べよ」という古い言葉もあるように、農業は本来地元に即したものであるべきで、安いから、おいしいから、珍しいからといって地球の裏側の食べ物を食することは、食律に反することと云えます。我々が目指す「エコの環」はもっとも食律に叶ったものであり、これからは種にもこだわった活動にしていきたいと考えています。

2013年3月2日土曜日

複式簿記(つづき)

  前回、エクセルで金銭出納帳を作り、これにインプットすれば自動的に仕訳帳、勘定元帳が作れ、活動計算書も簡単に作れることを紹介しました。これで一件落着と思っていたら、活動計算書、貸借対照表、財産目録の「正味財産額」が一致しないという問題に直面しました。エッ!何、コレ!とアチコチに相談しても詳しい人がおらず、最終的に府庁府民力推進課の加川さんにたどり着き、以来、彼のご指導を受けながらなんとか問題を解決することができました。
  根本的な問題は、従来の収支計算書が”現金主義”というか金の出入りを重視するのに対し、活動計算書では”発生主義”、すなわち実施した活動の内容が重視されることにあるようです。我々NPOでは前期まで京都府の委託事業を行っており、その後払い金が今期の5月に入ったため、その時に銀行への借入金返済を行なっています。したがって収支計算書では5月に入金と出金が発生するのですが、活動計算書ではそうした出入りは前期に発生して終わっており、今期は何も考える必要がないわけです。また、今期は活動資金が少なく未払金が発生しているのですが、収支計算書では支払いがないので何も記載する必要がないのですが、活動計算書では支払ったと考え、代わりに流動負債が発生したと考えるようなのです。こんな知識は技術屋の我々にはまったく無く、たとえ会計ソフトを使ってもプリントアウトされる結果が正しいのか間違っているのか判断できないと思います。
  そこで従来使っていた収支表をアレンジして下図の改訂版を作ってみました。これによれば予算額に対する月々の収益、費用の流れが分かるだけでなく、月末の(現金+預金)額と出納帳残額との突合せ、未収金、未払・借入金などの入金・返済状況も確認できます。また、期末に未収金、未払金などをインプットすれば活動計算書としてながめることもできます。


2013年2月16日土曜日

複式簿記

NPO法が改正(2012年4月1日施行)され、これからは収支計算書に替わって活動計算書を作成する必要があると云います。何がどう変わるのかサッパリわからず、講習会に参加したりいろいろ情報を集めると、どうも金銭のやり取りを複式簿記で記帳する必要があると云います。経理の知識など皆無の我々には”頭が真っ白”になるほどの驚きで、府の担当者に尋ねると「会計ソフトを使ったらよい」とソリマチのソフトを紹介してくれました。インターネットで調べると体験版ソフトが用意されており、早速ダウンロードして試してみました。しかし多くの帳簿類、多くの選択項目を目の当たりにすると、一体どこから手を付けてよいのか分からず、凍りつくというか大きな絶壁を前に茫然と立ち尽くす感じでした。さいわいソリマチには多くの女性インストラクターがおられ、我々の稚拙な質問にもいちいち丁寧に応対してくれましたが、如何せん経理の知識のない我々にはときに外人と話しをしている感じで、活動計算書にしても瞬時に打ち出してはくれますが、なぜそういう結果になるのかが理解できず、まさに「おサルの電車」のサルの心境でした。これはマズイということになり、経理の本を2冊買い込んで年末年始に猛勉強しました。そしてエクセルで金銭出納帳を作り、それにインプットすれば、自動的に相手科目ごとに借方、貸方の仕訳をし、総勘定元帳(現金)、(科目別)ができるようにしました。そして活動計算書が簡単に作れるようにしました。下図はこのようにして作った仕訳帳と科目ごとの勘定元帳の一部です。我々のような小規模なNPO法人には、あえて複雑な会計ソフトを使わなくてもこのエクセルによる方法で十分ではと考えています。

仕訳帳
科目ごとの勘定元帳

2013年1月30日水曜日

奇跡(つづき)

前回、体罰により起きた高校生の自殺の問題に触れ、我々が人間として生まれたことは奇跡に近く、だから生命の有り難さをもっと真剣に考えるべきことを書きました。その後ある本(永田和宏:タンパク質の一生、岩波新書)に書かれていたことを思い出し、今一度その本の内容から生命について考えてみたいと思います。
  我々の身体は約60兆個もの細胞からできているそうです。想像もできない数ですが、60兆円を1万円札で積み上げると600キロメートル、富士山の160倍もの高さになるといいますからその数のすごさが分かります。各細胞には小さな核があり、その中に細いヒモ状の「DNA」が折りたたまれ、親から子への遺伝情報を保持し、自己複製の役割りを担っています。このDNAをつなぎ合わせてまっすぐ伸ばすと約1.8mになり、身体全体ではその長さは1,000億キロメートル、なんと地球と太陽を300往復するほどの長さになると云うからビックリです。親から授かった生命を守っていくのにそれほどの情報量が必要とされるのです。そしてわずか10~20ミクロン(1ミリの100分の1~2)ほどの各細胞の中には、数万種類ものタンパク質が個数にして80億個ほど詰まっていて、細胞が生きていくための生命維持活動を行っていると云うから、もう驚きを越して奇跡が起きているとしか云いようがありません。身長2mにも満たない我々は巨大な宇宙空間を抱えて生きているのです。こんなことを知ったら安易に死んだり、あるいはいじめ・体罰を加えるなど、とんでもないことだということになります。
  詳細は忘れましたが、細胞の中のタンパク質の働きがまたスゴイのです。小さいころラジオから人の声や音楽が聞こえるのが不思議で、「コビトがいるの?」と親に聞いたことがありますが、まさにコビトさながらの働きをタンパク質が行っているのです。まず骨格原料となって細胞などを形作り、次に酵素となって細胞内の代謝(分解・合成)反応をつかさどり、物質やエネルギーを作り出します。細胞内の物質の移送には物質に移送先の荷札をつけ、レール上をモーターを使って運ぶそうですが、荷札・レール・モーターは全てタンパク質から作られます。また、さまざまな情報伝達もタンパク質が担っています。こうしたタンパク質にも寿命があり(数秒~数か月)、寿命が来れば分解され新しいものが作られます。そのときの再生装置もタンパク質から作られ、DNA(タンパク質)の鋳型を使って複製されます。このとき不良品が発生すると品質管理のメカニズム(タンパク質が関与)が働き、廃棄処分されるというから思わず笑ってしまいます。1個の細胞は目に見えないほど小さいのですが、その中には一つのタンパク質社会が存在し、精巧かつ見事に機能して我々の生命を維持管理していてくれるのです。改めて生命の重みを思い知らされると同時に、動・植物を含めみだりに生命を粗末にしてはならないことを教えてくれます。

2013年1月17日木曜日

奇跡

生命のかけら
昨年は大津の中学校でのいじめによる自殺が大きな問題となり、今度は大阪の高校での体罰が原因の自殺が大きな問題となっています。これからという若者が自らの生命を絶つことほど痛ましいことはありません。
  大津の事件の後新聞では、「いじめはよくない」と10数名の著名人による訴えが連日行なわれ、今回も「体罰はよくない」との訴えが行われています。しかしどれも何かが欠けているように思われて仕方がありません。私にはこうした問題が起きるといつも心に浮かぶ絵があります。数十年も前、小学生の子供に買い与えた手塚治虫の「ブッダ」という本の中の数コマの絵です。それはこの地上のありとあらゆる生命は、死ぬとかけらとなって宇宙という大きな球体に吸い寄せられ、渾然一体となった後そこから再び無数の生命のかけらが生まれ、それが世界のありとあらゆるものに新たな生命を吹き込むという絵です。つまり我々の生命はゾウ、ネズミ、虫けら、雑草、あらゆるものの生命と根源は同じであり、生まれ変わるときはどんな生き物になるか分らず、だから「人間に生まれたことは奇跡に近く、とても有り難いことなのだ」ということを教えているように思います。本には「人間も自然の中ではあらゆるものとつながりを持ち、意味があって生きており、もしお前がいなかったら何かが狂うだろう。お前は大事な役目をしているのだから」といったセリフもあり、この本を読むと我々の生命がいかに大切なものであるかを教えられる気がします。そして生命が失われるとなぜ人は悲しみ、いかに悪人であっても鞭打つことをしないかが分かる気がします。いじめや体罰がなぜダメなのか、それを避けるにはどうしたらよいかという話しの前に、我々に与えられた生命がいかに尊いものであるか、だから決して粗末に扱ってはならないことを大人自体がもっと考え、若い人に教える必要があるのではないでしょうか。

2013年1月7日月曜日

苦手は伸びしろ

珍しく快晴に恵まれた宮津の元日
   明けましておめでとうございます。今年も”徒然なるままに、日ぐらしパソコンに向かひて、「エコの環」、あるいは「環境問題」の心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書き付けたく”思いますので、よろしくご訪問のうえ叱咤激励のほどお願いします。
  さて新春の新聞で名門インテルに移籍した長友選手が、「僕は自分の苦手なところを自分の伸びしろだと思うことにしており、苦手だった走りを武器に変えた」と語っていました。やはり一流と云われる人は考えることが違うと感心させられましたが、長友選手のお母さんがまたスゴイ人で、「親が先回りしないよう心掛けている」ということで、長友選手が中学時代に悪い場所に出入りしても、大事な試合に負け落ち込んでいても、イタリアでけがをしても親からは一切連絡をせず、その代り本人から求めがあったときは何があっても話しを聞いてやり、親としての言葉をかけてきたと云います。そして親の役目は子供の不満、否定的考えをプラス思考で受け止めてやり、親の考えに従うのでなく、自分で考え自立する子供に仕向けてやることだと云っておられます。どちらの考え方もいまの日本が大いに学ぶべき示唆に富んだ言葉のように感じました。
  バブル崩壊後20年あまり、日本は成長なき経済に陥っています。この間、経済学者も政治家も産業構造の変革を考えるより、景気浮揚策として従来の成長モデル(日本の得意分野)の振興策ばかりに目を向け、挙句にインフレを創出しようとしています。しかし後進国の成長により地球資源の枯渇は目に見えてきており、大間のマグロに初セリで1億5540万円もの最高値が付いたと云いますが、これも最近マグロを食べるようになった中国人との熱き戦いの結果であり、このままではあらゆる分野で資源の奪い合いが始まりかねません。そろそろ「脱成長」による豊かさを求めるべき時が来ており、20年間苦しんできた日本の中にこそ、脱成長、脱資源のための「眠れる宝」が一杯あるように思います。日本は世界に先駆け、そうした萌芽の発掘にこそ目を光らせるべきではないでしょうか。グローバリゼーションが進む中、ローカリゼーションに目を向けることも大切です。「青い鳥」は意外と近くにいるからです。その意味からも「エコの環」をしっかり育てていきたいと考えています。